第35回公開市民大学:平本弥星

第35回公開市民大学:平本弥星

囲碁という日本の文化
日本棋院棋士  六段  平本弥星

わがやどの きみまつのきに ふるゆきの ゆきにはゆかじ まちにしまたむ「待つ」を「松」に、「雪」を「行き」に掛けています。万葉集にある歌で作者は不明。1260年の昔、1月5日に安部虫麻呂の宴で詠まれました。 その天平16年(744)は奈良時代の中期、仏教を尊び碁を愛した聖武天皇の世です。天平9年、政治の実権を握っていた藤原四兄弟が天然痘により相次いで没し、光明皇后の異父兄、橘諸兄(もろえ)が朝廷で中心となっていました。諸兄の実弟、橘佐為(さい)が没したのも天平9年でした。橘諸兄は大伴家持とともに、万葉集の成立に深く関わっていたといわれます。

聖武天皇の祖父で光明皇后の父である藤原不比等(ふひと659-720)が編纂した「大宝律令」の一つ「僧尼令」に「僧尼が音楽と博戯をすれば百日の苦役、碁と琴に制限はない」とあり、不比等か碁を好んだのは間違いありません。正倉院の宝物「木画紫檀棊局」は百済の王が不比等の父、鎌足に贈った美しい碁盤で、光明皇太后が聖武天皇の遺品として東大寺に奉献したものです。
仏教伝来※1と同じ頃に日本に伝えられた囲碁は貴族の教養の一つとなっていましたから、諸兄と佐為の兄弟も碁を打ったに違いありません。万葉集には碁師の歌が二首収められています。碁の歌ではなく、碁を教えに碁師が旅した地方の風景を詠んだ歌です。

それから1200年余り、囲碁の盛んな時代が多々ありました。平安時代には清少納言も紫式部も碁を打ったことが『枕草子』や『源氏物語』からわかります。貴族や僧侶だけか碁を嗜んだのではありません。源義家も頼朝も碁を好み、鎌倉時代になると囲碁は武士に広まりました。室町時代は農村にも碁盤と碁石が普及し、農民の子が碁遊びによって数観念を身につけました。囲碁は日本人の知的発達に少なからず貢献してきた文化ですが、それを知る歴史家が少ないのは残念です。

戦国時代には武将の多くが囲碁を好みました。豊臣秀吉が千利休に授けた碁盤が現存しています。利休が育った堺は、他の文化とともに碁が発達した都市です。

徳川家康も碁を好み、一世本因坊算砂※2を筆頭として碁将棋の家元に幕府が扶持を与えました。家元四家の棋士が競う檜舞台は年一回の御城碁。津々浦々の人々が御城碁の勝敗に関心を持ち、囲碁は全国的な人気競技でした。本因坊家、安井家などには各地から優れた青少年が集まり研鑽に励みました。人気アニメ「ヒカルの碁」で広く知られるようになった本因坊秀策は、34歳で没した幕末の棋士。秀策は明治時代に評価が高まり、棋聖と呼ばれるようになりました。

明治維新の中心となった若き下級武士の多くが碁を好みました。明治6年に下野した西郷隆盛が伊藤博文に別れの挨拶をしたとき、伊藤は碁を打っていたそうです。伊藤の相手は西郷の盟友であった大久保利通。近代日本の国家体制を築いた大久保の唯一の趣味は囲碁でした。

福沢諭吉も大隈重信も、渋沢栄一も岩崎弥太郎も碁を好みました。政財界の重鎮は本因坊秀甫や本因坊秀栄を支援し、明治時代に再び碁が盛んになったのです。20世紀初頭の政界で活躍し、五・一五事件の凶弾に倒れた犬養毅はアマ高段者、たいへん立派な棋譜が残っています。大正13年(1924)に創立された日本棋院※3の機関誌『棋道』(99年に休刊)の題字は犬養の揮毫でした。

日本棋院本院(市ヶ谷)の最上室「幽玄の間」に掛かる軸は「深奥幽玄」。川端康成の直筆です。川端が自身で最も気に入っていた作品は『雪国』でも『伊豆の踊子』でもなく『名人』だったそうです。21世本因坊秀哉※4と木谷實※5が半年がかりで打った秀哉名人引退碁を描写した小説です。

川端の随筆に「私の知る限り、碁ほど精神を集中し、沈潜するわざはほかにない」とあります。「西洋にもいろいろと勝負事は多からうが、碁はそれらと自ずから趣を異にし、心境を尚ぶ東洋精神が籠もってゐる」とも書いています。

囲碁は二千年以上昔に中国で誕生し、5世紀の書物に「手談」と記されています。言語の違いを超えて楽しめる囲碁は古代から中国、朝鮮、日本に広まり、東アジアの共通文化となりました。そして、平和な時代が長く続いた日本で、囲碁は高度に発達したのです。

川端と親交のあった呉清源※6九段は、14歳で来日したときすでに高段の棋力に達していました。呉少年は北京で、日本に留学した父が持ち帰った棋譜に学んでいたのです。重い打碁集を片手で持って毎日長い時間碁を並べたため、呉九段の手は今も少し反り返っています。

日本では江戸時代初期から400年間、主な対局の棋譜がほとんど残っています。現代はプロの棋譜が年間1000局以上生まれ、日本棋院のデータベースに保存されている棋譜は4万局以上です。碁は勝負が全てではありません。先人の高度な知性が凝縮している幾千の棋譜こそ日本の囲碁文化の粋と言えます。

21世紀の囲碁界は「ヒカルの碁」で幕が開きました。テレビ東京の放映が2003年3月に終わってブームは沈静化しましたが、主人公のヒカルと佐為は子供たちの心に残ることでしょう。碁に興味のある子供が急激に増加し、全国各地で子供囲碁教室が開かれました。その多くは今日も続いています。囲碁の輪がさらに広がって行くかどうか、それがこれからの課題です。学校や地域の活動で碁を取り上げていただく機会も増えましたが、指導者の力量に負う面が少なくありません。

囲碁とは何か?その答えは人によって異なります。「囲った地が多い方が勝ち」という日本ルール※7の勝敗決定方法を知るだけでは、碁の本質がわかりません。私は「囲碁は黒と白が生存余力※8を競うゲームである」と考えています。 碁を良く知っているに越したことはないのですが、指導者に求められるのは目的意識です。碁に親しむことがその子の知的発達に役立つのでなければなりません。碁には学校教育で得られない素晴らしさがあるのですから。

愛棋家※9ほど囲碁を教えることに熱心になり、盤上の知識や手段の説明に力が入ってしまいがちです。年配の方々に対する指導ではそれも必要ですが、青少年にそうした方法は不適当です。碁を教わりたい、覚えたいと思っている大人と違い、面白いと感じて自分からやりたいと思わなければ子供は続かず、続けても上達しないでしょう。自分の考えで石を置き、相手の石を取った面白さや勝つ喜びをいっぱい経験することが大事です。

手に持った石をいつまでも置こうとしない子や、アタリ※10の石をなかなか取らない子も少なくありません。子供を見守る気持ちが雪のように解けてしまわないよう「待ちにし待たむ」、待つことにしましょう。

※1 仏教伝来『日本書記』に記された公式伝来は6世紀中頃ですが、それ以前に 渡来人が仏教を信奉しています。囲碁も6世紀以前に伝わっていたと思われます。
※2 算砂(さんさ)1559-1623。日蓮宗の僧、日海。碁の名手で初代本因坊となる。
※3 日本棋院 囲碁専門棋士の団体、財団法人。本院(市ヶ谷)、関西総本部、中部総本部にプロ棋士(約350名)が所属。関西棋院(約120名)は別組織。
※4 秀哉(しゆうさい)1874-1940。世襲制最後の21世本因坊。1937年に引退し、本因坊の名跡を日本棋院に譲る。初の新聞棋戦(毎日)本因坊戦が誕生した。
※5 木谷實(きたにみのる)1909-75。1933年、呉清源と研究した「新布石」を打ち始める。弟子を多数育成。小林泉美五段(女流本因坊、女流名人)は孫。
※6 呉清源(ごせいげん)1914-。呉清源十番碁(読売新聞)で一流棋士をことごとく打ち負かし、第一人者の地位を確立。83年引退。
※7 日本ルール 囲碁ルールは日本ルールと中国ルールに大別される。韓国は日本ルール。欧米は日本ルールが主流。計算法の違いであり、対局中の手段はどちらも変わらない。日本ルールは取った石で相手の地(じ、囲った地域)を埋め、残った地を比較して大きい方が勝ち。中国ルールは取った石を排除するだけ。一方が囲った地の目数(もくすう)と置いた石の総数を合計し、碁盤の目の総数361の半分より多いか少ないかで勝敗を決める。日本ルールでは打っても価値のない地点であるダメ(駄目の語源)も1目なので、中国ルールは最後まで気を抜けない。
※8 生存余力 仲間の石がどれだけ多く生存できるか、それが囲碁の本質であるという概念。集英社新書『囲碁の知・入門編』(144ページ)で平本が初めて用いた。
※9 愛棋家 囲碁を愛する人。棋は棊が元の字、ゲームの駒の意でした。棊を囲んだら取れるというルールのゲームが囲棊。棊と碁は素材の違いに拠ったと思われ、同じ字。古代中国で囲碁が広まると、棊は囲碁を意味するようになった。
※10 アタリ 囲碁用語。囲まれた石(タテとヨコの隣接点を相手の石に全てふさがれた石)は取られ、碁盤の上から排除される。取れる(取られる)一手前の状態がアタリ。アタリになった石は隣接点に打って逃げたり、味方の石と連絡すれば取られずにすむことが多く、アタリ自体を恐れる必要はない。初心者はアタリに気づかないことが多く、アタリをかけて取ったり取られたりしながら次第に上達する。

プロフィール

〈名前・出身・生年月日〉
平本 弥星(ひらもと やせい)
1952年生まれ。東京出身。旧名、畠秀史。2001年改名。
〈学歴・職歴〉
1971年 都立戸山高校卒。
1975年 一橋大社会学部卒。同年三菱レイヨン株式会社に入社。
1976年3月 三菱レイヨン株式会社退職。同年夏の棋士採用試験を受験、1位合格。
1977年4月 日本棋院棋士。
1998年 棋士会副会長。現、日本棋院インターネット事業室アドバイザー。
〈棋歴〉
1968年 アマ初段。
1970年 アマ6段。高校囲碁選手権で活躍。日本代表として韓国遠征。
1974年 学生本因坊。
1977年 棋士初段。同年二段。
1978年 三段。
1980年 棋聖戦三段戦準優勝。
1981年 四段。
1984年 五段。
1996年 六段。古今に比類ない文字詰碁を多数創作。
〈著作〉
『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
『アマの負ける手・負けない手』(日本棋院文庫)
監修『囲碁のひみつ』(学研まんが新ひみつシリーズ)
〈その他〉
日本数学教育学会会員。1988年から数年間、清水静海筑波大学助教授の指導のもと教育研究を行う。

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