環境とコミュニケーション―「エコロジー」って何だろう?
一般教育
「環境」って何でしょうか。多くの人は、わたしたちの外にある自然環境を考えるかもしれません。
しかし、環境とは、自然環境のことだけではありません。その証拠に、自然環境だけでなく、衣食住環境、経済環境、情報環境、医療環境などが、わたしたち(の身体、思考、ライフスタイル、価値観など)をつくっており、これらの環境はわたしたちと切り離すことはできないのです。わたしたちは、政治、法、経済、宗教、教育、芸術、科学技術、マスメディアなどのさまざまな制度や機能システムにとり囲まれています。これらの機能システムは、日々、生成変化し続けています。ひとりひとりの何気ないコミュニケーショの連鎖が、機能システムという環境に変化をもたらし、それらがわたしたちをつくり、変化させているのです。
それでは、これらの環境=機能システムは、知性によって操作・制御可能な対象でしょうか。
残念ながら、現代社会は、その反対を示すニュースやできごとであふれています。
わたしたちをとりまく機能システムが複雑で影響力が大きくなればなるほど、各機能システムの暴走や破綻がわたしたちに及ぼしうるリスクの全体を俯瞰して計測・調停・制御する上位の統合的な視点や知が存在しないことへの不安が増幅しています。
その結果、環境改変に伴うリスクへの不安を全否定するナルシスチックな知性による安全神話を生み出したり、参加型民主主義への過剰な楽観を生み出したり、反対に、リスクの源泉を探して相互に監視、糾弾、排除を繰り広げるヒステリックな「不安・不信のコミュニケーション」や「道徳のインフレーション」にまき込まれがちです。
そこで、本講義では、ルーマンやベイトソンらのコミュニケーション論を紹介しながら、自らの学習プロセス自体を問いなおし続ける学習が継続して生成し、互いの差異から学習しあい、新たな冗長性を探りあい続ける「ポリフォニー的な対話(対位法的なコミュニケーション)」によってつながるネットワークやコミュニティを育むには、どのようなコミュニケーションが必要となるのかを考察します。
また、アートやデザインを媒介として「豊かさ」や「調和」を探りあい続けるコミュニケーションの実践などを体験しながら、部分の最適化にばかり偏した文明から、動的平衡を探り続ける生命文明へと展開していくために必要な知恵とマナー、そして科学技術とのつきあいかたについて考察します。