CONTRIBUTORS

寄稿者一覧

  • ※『日本大学理工学部100年史』の掲載順です。
  • ※ 所属、役職は2020年2月現在です。
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木村 翔

木村 翔

日本大学名誉教授

建築学科|1954年卒業
1959–2001年在職|建築学科

我々が1950年代の初期に学んだ木造の日進講堂の跡地に建てられた5号館が、丁度竣工した年の1959年4月、専任講師として建築学科教室のお仲間に入れていただくことになった。その5号館の8階の研究室で、翌1960年4月に初めて卒論を申し込んできた、私と6、7歳しか年の違わない7名の人たちと、兄弟のようなお付き合いが始まってから、最初の4、5年は、毎年10名前後の卒論生を迎えて、吸音の実験や各地のホールの音響測定、模型実験などに楽しく取り組んだことが懐かしく思い出される。その後の1970年代には、社会問題にまでなった集合住宅の生活騒音や、国からの依頼で住宅防音のための基礎騒音データの作成が求められた航空機騒音など研究テーマが広がると共に、毎年研究室に入ってくる卒論生の数も20名を超え、大学院生の数も次第に増えて、80年代、90年代と活発な研究活動が続けられてきた。2001年3月にリタイアするまでの42年間に巣立っていった卒論生の数は870名、修士は144名、博士の学位を取得した方は30名となっている。この博士のうち4名の方々(関口、井上、野崎、羽入)が、日本建築学会賞(論文)を受賞している。

建築学科では2年ごとに教室主任の選挙を行っていたが、1987年10月に佐藤稔雄教授の後を引き継ぐ形で教室主任に選出され、1997年9月まで5期10年にわたって教室主任の大役を務めることになった。

その間に、フジタから寄付講座開設の申し出があり、大学院に初の冠講座として「フジタ都市講座」が開設されることになった。講座長には私の学友のよしみで磯崎新氏に依頼し、彼がよく知る海外の著名な建築家10名を順次招いて、1992年4月から1993年12月まで2年間にわたって12回(コールハース、リベスキンド、ポルザンパルクなど海外の10名と磯崎新、伊東豊雄)の公開講演会と学内セミナーを開催し、大成功をおさめることができた。

その結果、1994年、1995年には「フジタ都市講座第2期」が開催されることになり、引き続き磯崎氏の講座長のもと、海外から6名(ピーター・クック、チュミなど)の建築家を招へいして、それぞれの都市と建築について語っていただくと共に、大学院生の設計ワークショップ、「都市と環境」についてのオムニバス形式の総合講座を開講し、いずれも成功裏に終了することができた。

原田 宏

原田 宏

土木工学科|1955年卒業
1991–2003年在職|土木工学科

「葉室と遊佐との昔より、競いて破れしことぞなし……」これは水泳部の応援歌である。オリンピックが近づくと、この応援歌が甦る。

私の学生時代の体操の単位は、後楽園球場で行われる野球を応援することだった。入口にはエスケープを制する応援団員が立っていた。「日に日に新たに……」の校歌をよく声をあげて歌ったものだ。測量実習地は二子玉川の河川敷で、玉電で通ったが、寒い日は渋谷の屋台にお世話になった。4年生になるとクラスメイトは急に2倍を超え、旧1号館5階の大講堂は超満員になるが、ニコライ堂の鐘の音に癒やされたものだ。私は北田勇輔教授の急逝のため、36年間務めた鹿島建設を退職して1991年4月より母校に帰る栄誉を得た。木下総長(当時:理工学部長兼務)から鹿島建設の社長に割愛願いが出されたことは稀有なことで大変スムースに退職して教授の任に就いた。初めて託された卒業論文を書く学生は22名で大変驚きであった。

土木工学科の学生の就職先は、官公庁・建設業・コンサルタントの3種に大別されるが、同期の近藤元次君は政治家となり、第1次宮澤内閣の時、農林水産大臣に就任したことは我らの誇りであった。

学生時代に習った土木材料の教科書は大変つまらなかったので、土木工学のそれぞれの分野で道を拓いた後輩の協力を得て、ユーザーの立場に立った土木材料学の本を書き上げ、1993年4月初版は他大学からも注目される教科書となった。5号館食堂で開催した令夫人同伴の完成祝賀会は懇親の度を深めることができた。次いで、アメリカコンクリート学会(ACI)で纏めたものを翻訳した「イラストで見るコンクリート構造物の維持と補修」1985年9月初版は2020年に印税が送られてきたことは驚きであった。この2冊の印税は貯金をして私が退職の年から毎年桜門土木技術会議(1978年設立)の学術奨励賞(原田賞)を大学院で優秀な学生2名にお祝い金などとして還元できたことは望外の喜びである。私の出版した土木材料の教科書の1993年初版では、建設白書からの資料として10%、2019年版の日本建設業連合会の資料によると建設産業就業者は全就労者の7.5%とある。土木工学科の卒業生は、これからの我が国の強靭な国土形成に重要な役割を果たすことになろう。新型コロナウィルスに負けず日大健児の意気を見せる時。元気をだそう!!

2020年元旦の同級生からの年賀状は、朝倉崇、出浦洋、板橋一郎、島田明、武田明、鳥海慶寿の6兄であった。私の研究室から社会に飛び立った若者は150名に近い。私の誕生日に毎年親睦会(一究会)が開催をされている。研究室は3号館3階33号室。最後の締めは仙台から駆けつけてくれる千葉望君の日大神田節、ふれっふれ日大などを合唱して三三七拍子の拍手で終わる。昭和30年卒は88歳米寿を迎える喜ばしい年でもある。

木方 靖二

木方 靖二

理工学部校友会顧問 電気部会名誉会長

電気工学科|1957年卒業 
電気工学専攻|1960年修了
1960–2008年在職|電気工学科

1953年日本大学理工学部電気工学科入学、学部、大学院を経て理工学部に勤務、定年退職後非常勤講師を5年間、通算56年間理工学部に在籍した。その間お世話になった恩師、先輩、同僚等多数の方々、及び素晴らしい教育研究環境を与えて下さった大學当局にあらためて感謝する次第です。

在職中は、真空管の時代から、トランジスタ、IC、アナログからデジタルへの電気・電子工学の技術進歩の歴史と共に歩んだ事になり、自己研鑽の連続だった。大学院での「電機機器特論」「制御工学特論」は輪講形式で行い、当時話題となった新しい技術を採り上げ院生と共に学ぶ楽しい時間だった。

1981年日大OBの赤穂義夫氏(愛媛県今治市観光協会会長)から来島海峡での潮流発電の研究開発の依頼があった。潮流は流速が正弦波状に変化し、流れの方向が6時間ごとに反転し最大流速は秒速4.5m/sとなる。そのため装置を簡略化するため、流れの方向に無関係に常に同一方向に回転する垂直3枚翼直軸型水車を開発した。実験水路による予備実験後、来島海峡の実海域で1984年8月から1988年3月の間に実証実験を行った。装置の定格出力は5kWだったが、最大流速域に設置出来ず最大出力は1.2kWだった。装置は回収後、船橋キャンパスに展示されている。潮流発電は実用化されなかったが、開発した水車は直線翼直軸型風車として小型風力発電に応用され実用化されている。これにより、以後再生可能エネルギー関係の学会その他各種委員会、国内外のシンポジウム、国際会議に参加した。実証実験はNTV「今日は何の日」“世界初潮流発電の日”に紹介され、その後NHK総合「地球大好き」“環境新時代”に、共にコメンテーターとして出演した。退職直後には、台湾国立成功大學(台南市)に客員教授として招聘され技術指導に当たった。

最後に、印象に残る出来事は、本学と中国西安理工大学との学術交流で西安に1カ月滞在した折、全寮生活の学生が朝の7時には暖房の無い厳寒の教室で自習している真剣な姿に感銘を受けた。現在の中国発展の基盤を見た。大学院の指導教授執行岩根先生が「眠れる獅子中国が目覚めた時は凄くなる」との言葉を思い出す。講義で、地球温暖化現象の話をしたとき、同席の教授がこの地にとって暖かくなることはありがたいと発言され。国による温度差を感じた。三十数年経った今もパリ協定が完全批准されないこの問題の難しさを痛感している。

石井 弘允

石井 弘允

日本大学名誉教授

電気工学科|1958年卒業
1959–2005年在職|電気工学科

理工学部創設100周年の慶祝の記念誌に執筆させて頂き誠に光栄です。

私の在職中で特に印象に残っている研究は、旧駿河台日本大学病院の循環器科の先生方と虚血性心疾患に関する共同研究を代表者として進めたことです。一命を取り留めた患者さんの超音波心エコーを高速フレームメモリーで記録し、心筋梗塞の発症部位を画像処理により確定し、回復に繫げる診断支援技術を確立しました。この研究は日本大学総合研究に採択され、さらに心房細動に伴う血液凝集の定量評価の診断支援へと発展させました。

また、防災に関するテーマとして進めていた火災検知の研究は、空間条件と多次元センサのベクトル軌跡から危険レベルに到達する時間を予測するもので、海外において認められ、1985年にロンドンで開催された国際会議IFSSECの特別講演者として招待されました。このことが国内でも話題になり、日本火災学会の新春講演にも招聘されました。環境計測分野のゴミ最終処分場の安全管理に関するセンシング技術の研究は本学の特許権保有に貢献しております。

講義での思い出は、助教授に昇格してパルス・デジタル回路の講義を担当することになったときのことです。宿題としてハードウエアの設計製作を課題としました。各自で設計の条件が異なるため、部品の選定・購入も全て自分で考えなければならず学生諸君は苦労したようで、何でレポートだけでないのかと不満もありました。しかし、完成して性能が達成できたときの喜びは格別であったのでしょう、感激して泣いた、涙が出る程嬉しかったという声を聞きました。励ましながら多くの質問に応じたのは大変でしたが嬉しい記憶です。卒業生からは最高の思い出です。ずっと続けていてほしいという言葉が返ってきます。今もOBG会の語り草になっているそうです。

二つ目は教室主任のときに電子回路CADを学部、大学院に新設したことです。当時はコンピュータプログラムで動作解析をするのが主流の時代で、アナログ・デジタル混成の回路図を作成して解析する電子回路CADは斬新でした。ノートパソコンを貸与する予算も付けて頂き講義を自分で担当しました。卒業生からは大学で実践CADを学べたのは良かった。入社してから大いに助かったという嬉しい声を聞きます。

楽しかった現役時代の講義が私の人生の原点であったのかもしれません。

内田 幸彦

内田 幸彦

日本大学名誉教授

機械工学科|1959年卒業
1966–2005年在職|機械工学科

駿河台はまだ戦後の雰囲気を若干残していた昭和30年4月、工学部機械工学科に入学した。当時の工学部は7学科であったが、昭和33年物理学科の増設により理工学部と改称された。東京オリンピックが開催された昭和39年11月に教員として戻れたのは幸運であった。その間、数学科、交通・精密機械工学科の増設があり、さらに昭和53年4月に電子・海洋建築・航空宇宙工学科が増設された。航空宇宙工学科の発足に際して、機械工学科では翌年9月に、歴代の主任教授・教室主任、現主任及び航空宇宙工学科初代主任にお集まり頂き「機械・航空宇宙両学科の過去・現在・未来」と題しての座談会が開催され、機械工学科の小冊子に掲載されることになった。出席者は、昭和29年4月就任の木村秀政先生を始め、就任順に粟野誠一・倉西正嗣・佐貫亦男・新澤順悦現主任及び横井錬三航空宇宙工学科初代主任の先生方であった。

戦後の混乱期の昭和22年2月に粟野・池森先生、少し遅れて木村先生が、その後間もなく倉西先生が着任され、若手代表では景山・櫻井先生が在職であった。研究設備の整わない中、大変な苦労をされた思い出話に花が咲いた。当時教育面では、一時粟野先生が材料力学を担当し、新澤先生がその授業を受けていたなど、専門外の科目も担当したとのことであった。その後の学園紛争最中、倉西先生引き続き佐貫先生が主任として学生との真摯な対話・交渉に当たられ文字通り体を張って正常化に尽力され、次第に落ち着いていった。再び粟野先生が主任を引き継ぎ通常状態に戻っていった経緯などがあり、さらに両学科現主任から未来への展望などが語られ、将来への希望と期待がもてた。

ここに挙げた先生方は、機械工学科のみならず理工学部の中枢で活躍され、粟野先生は学園紛争までの長い間学監として理工学部の入学試験の一切を統括され、また、木村・新澤両先生はそれぞれ第6代・第9代学部長として、理工学部の発展・繁栄の歴史の基礎を担ってこられた。このような権威ある尊敬できる先生方に触れる中での座談会の司会をさせて頂いたことを誇りに思うと共に感動を覚えた。

この後の理工学部の発展は、皆様の知るところである。

高橋 寛

高橋 寛

日本大学名誉教授

電気工学科|1959年卒業
1964–2004年在職|電気工学科/電子工学科

昭和39年理工学部に勤務し、平成16年に定年退職するまでの40年間にはいろいろな科目を担当したが、その中で制御関連の講義について思い出を書く。

わたくしの入学した昭和30年は、電気工学科のカリキュラムに新しく「自動制御」が加えられた年である。当時の「自動制御」はシステムの入出力に着目した伝達関数が主役で取り扱う内容も多くはなく、在学中に刊行された『岩波講座:現代応用数学』でも全15巻60分冊の中で、「自動制御」は1分冊に過ぎなかった。わたくしと制御との関わりは、修士論文のテーマが「サンプリング制御」であったことに始まる。その後の制御理論の流れは常識程度には追跡していたが、大きな変化は状態変数を用いた「現代制御理論」が導入されたことで、それまでの伝達関数による制御理論は、「古典制御理論」と呼ばれるようになっていた。

現代制御理論が身近なものになったのは、昭和58年から始まった電気学会の「無人化工場」関連の委員会に参加してからで、3期9年の任期の間には実務に携わる多くの方々の経験を伺う機会に恵まれた。そこでは、現代制御理論が状態変数に何を採用するかも含めてパラメータが多く、実用には困難が多いというのが一般的な意見であった。この段階では、将来自分が制御関連の講義を担当するようになるとは思ってもいなかった。

その間、所属が昭和54年新設の電子工学科に変わり、何年か経って前任者の後を受けて「制御理論」の講義を担当することになった。上に述べたように制御関連のことから遠ざかっていたわけではないので、講義すること自体にはあまり負担は感じなかった。わたくしは原則として講義には市販の教科書を使うが、当時ほとんどの教科書が現代制御理論と古典制御理論の両方を扱っていて、内容の配列や説明の仕方が千差万別なので、教科書の選択に迷った程度である。

後に大学院で「制御基礎論」を担当することになったときには、教科書をやめて自分の思い通りの講義をすることにした。この講義は、毎年機械工学専攻の学生諸君が多数聴講していたが、「薦められた」という以外理由は分からなかった。

安達 昭郎

安達 昭郎

元 工化会 会長/元 理工学部校友会 会長

工業化学科|1960年卒業

受験で何度も落ちた夢を見てベッドから落ちる。商社の欧州駐在員時代、1964年のチェコスロバキアの地方都市オストラヴァのホテルでのことをふと想い出す。時は冷戦時代、戦後の大きな節目、前年に米国ケネディ大統領の暗殺、その驚きの模様が全世界に初にテレビ中継された。64年東京オリンピック・初のパラリンピックもまた世界中に生中継された。

トラウマの難関、大学受験を高卒後3年目で乗り越え、化学の勉学を目指すことになった。

世田谷教養部では「土建電化」4学科混成の特異なクラスでスタート、「Ethic for Young People」を学び、仲間とガリ版小冊子「Freundschaft」発刊に熱を上げた。キャンパス内の横断的付き合いは在学4年間を通じて多くの知己を得て、交友は今も続く。

著名な教授陣を誇った工業化学科の駿河台2号館へ進み、ナフサ分解が盛んな1950年代、精製・蒸留、乾燥、熱交換など化学工学系授業が新鮮で興味をもつ。専門科目授業を必死にノート取り、コピー機無しの時代に海賊版化学書の書き写しに難儀し、仲間と洋書の輪読などが懐かしい。阪大の井本稔教授の著したカロザースの『ナイロンの発見』に出会い、読者自身がナイロンを発見したと思わせる説き方、考え方に深く感銘した。カロザースは新しい概念を築くのが化学者の本質であり、既知の概念の延長線上には疑問をもち、若くして自から悲劇的最期を遂げている。彼の教えは私にとって後の社会人として仕事に向き合う尊い教えとなった。

2号館で3年間指導をうけた伊藤瞬介先生の優しくも厳しい眼差しを注がれた姿は今も瞼に浮かび忘れられない。その優しさ厳しさは私の人生観と生き方を教えてくれたと思う。

卒業後は商社マンとして、戦後、世界に技術開発の後れをとった我が国工業界が海外の技術導入に躍起になった時代に、学んだ化学の知識が新しい技術の発見、導入に大いに役立った。

在学中は黒の詰め襟服(学ラン)で4年間通し、科学技術振興が叫ばれ、激しい60安保闘争を前にして自治会で学生運動に熱を上げ、昭和34年の伊勢湾台風では、ボランティア活動のはしりと言われた被災者救済にかかわる。また、工化会の再興を卒業された先輩方と共に果たしたこと、工学祭に、学部新聞「若きエンジニア」作りに仲間と共に走りまわった懐かしい想い出が多い。

世界情勢が激しく揺れ動く時代、どう世界と関わるか若き学生諸君にしっかりと考え行動して欲しい。理工学部創設100年を迎えた伝統ある学部の更なる発展を祝い、筆をおく。

西尾 成子

西尾 成子

日本大学名誉教授

1963–2005年在職|物理学科

物理学科創設から5年経った1963年4月に、私は助手として科学史研究室の廣重徹さんのもとで科学史の勉強を始めた。廣重さんはすでに「戦後日本の科学運動」を『自然』に連載し、特殊相対論に至る電磁気学の歴史の研究で名が知られていた。私は、原子核物理学の歴史を明らかにしたくて、放射能の発見から原子核の発見までの文献を読み始めた。放射能という未知の現象に、ベクレル、キュリー夫妻、ラザフォードたちが、どのような実験を考案しどう解釈して放射能現象の解明に接近していったか、彼らの論文は個性的で予想外の考察をしていることも多かった。面白くて夢中になって読んだ。

最初の年には、「物理数学」の演習を受け持った。1学年の学生数は十数人だった。できた人が回答を黒板に書くことにしていた。何回目かの時間に誰も黒板に出て行こうとしないで静まりかえっていた。どうしようかと思っていたときに、いつも遅刻をしてくる、寡黙で無表情のひとが、黒板に回答を全部書いていった。他の学生はみんな懸命にそれを写していた。以後、彼を待ちますか、ということが多くなった。その彼が誰あろう、物理学科元教授の仲滋文さんで、のちに、彼が歴史心をもち博識でユーモアもあることがわかった。量子力学の講義をいわゆる前期量子論から始められる人だった。素粒子論の歴史に関して多くを教えてくれた。

それから5年経った1968年に、在職中で最も強烈な印象に残る出来事が起こった。いわゆる日大闘争である。学生たちの問いに、すっかり考え込まされた。廣重さんが主張していた科学の体制化論に通底する問いだった。自分のやっている研究や教育がこの社会でどのような意味をもつのか、このときほど真剣に考えたことはない。東大全共闘の山本義隆さんの回想記に、日大全共闘のデモで、日大経済学部前の道路が、現実に物理的に揺れた、日大全共闘は、単にその圧倒的な動員力や、あるいは機動隊や武装右翼とのゲバルトにたいして強かったという点ですごかっただけではなく、日大闘争は、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限に発揮せしめた闘争であり、その意味で掛け値なしに戦後最大の学生運動で最高の学園闘争だったと思う、とある。

越智 健二

越智 健二

日本大学名誉教授

工業化学科|1961年卒業 
応用化学専攻|1963年修了
1963–2006年在職|工業化学科・物質応用化学科

研究室(化学工学研究室)で学生と一緒に実験装置の試作に取り組んだ思い出の一コマを紹介します。混合物の成分分離・精製に必要な各種物性に関する研究の一環として液液抽出(液体の相互溶解度の違いを利用する分離法)に必須の相互溶解度を測定する方法を検討していた頃のことです。

液体の相互溶解度は、例えば、2種の液体を混合した後静置して、分離した二つの液層の組成をそれぞれガスクロなどで測定する方法(タイライン法)、或いは一方の液体にもう一方の液体を添加しながら、液相が均一になり始めた(溶解点に達した)時に現れる白濁を確認する方法(白濁法)がありますが、どちらの方法も組成決定に誤差が伴うことと、広い温度範囲の溶解度の測定には耐圧装置と液を安全に注入、採取する仕組みが必要となるなど、これらの方法の導入は難しいと考えていました。そこで研究室では、組成分析が不要で、かつ広い温度範囲の溶解度を簡単に測定する方法の検討を始めたわけです。ある日、大学院生の一人が、壊れかけた埃まみれの濁度計(物理化学実験で使っていたもの)を廃棄物保管場所から探し出してきて「これ、実験に使えるかも」と言い出しました。早速電源を入れたところ、光源ランプと受光器(光センサー)が使えることが分かりました。この仕組みは新しい白濁法を試行するキーポイントとなりました。また液を混合する容器について、耐圧硝子機器メーカーから、耐圧ガラス製(容量約140ml、耐圧約10気圧)で表面に500Wのフィルムヒーターを付設した容器を入手できることがわかり、更に光源にはレーザーが有効との知見を得て、これらのことが切っ掛けで、概略次のような測定システムに辿り着きました。

まず、2種の液体をそれぞれ精秤し(組成は混合割合で決まる)、耐圧ガラス容器に仕込み密閉して、溶液をマグネチックスターラーで攪拌しながらフィルムヒーターで溶液の温度を上昇させる(昇温速度は自動化)。この間溶液にレーザーを照射し続ける。光センサーは光軸とは異なる位置に設置し白濁による散乱光のみを有効に捕捉できるよう、また溶液の温度とレーザー散乱光の強度は、学生の協力を得て、PCでモニタリングできるよう工夫した。

なお、考案した溶解度測定法は国際学会で発表し、測定精度が従来の方法に比べて高い旨の評価を得ました。

竹澤 三雄

竹澤 三雄

日本大学名誉教授

土木工学科|1962年卒業 
建設工学専攻|1965年修了
1965–2008年在職|土木工学科

私は日本大学理工学部土木工学科に入学したのは1958年(昭和33年)4月で、丁度、東京タワーが完成した年でした。三重県の寒村から兄を頼って夜行列車で到着した夢の都「東京」の雑踏は映画の一コマのようでした。あれから62年、昭和・平成・令和と時代が変わり世の中もすっかり変わってしまいました。

私が大学の教職に就いたのは1965年ですから学生時代も含めると約60年間、日本大学にお世話になったことになります。

学生時代には日米安保紛争があり、教員になってからは大学紛争がありで日本の政治が大いに揺れた時代でした。特に印象に残っているのは1968年の大学紛争でした。日本大学の助手になったばかりでしたが、毎日の生活は学生が押し寄せる校舎の前で学生からの罵声を浴びながらの警備でした。当時の神田の街は全共闘といわれる学生の群れと警察機動隊の衝突で荒れ果てていました。その大学紛争も数年で終わりましたが、私が専任講師として教壇に立ったのはまだ紛争の余韻が残る1972年でした。私が初めて担当を命じられたのは応用力学と設計製図の科目でした。最初の講義では教壇の上で授業再開に反対する学生とのマイクの奪い合いでした。私が大学教員として初めて受けた洗礼でした。当時の学生もその後大変成功されて官公庁や民間会社の要職に就かれ成功されています。

私は港湾工学を担当されておりました久宝雅史教授に師事いたしました。日本大学理工学部土木工学科の港湾工学は鈴木雅次教授・久宝雅史教授といった有名教授が担当された教科でした。三重の伊賀国の山奥に育った私には、海は大変魅力的でした。

学部時代の論文は三重県の四日市港の修築工事で夏休みを利用し四日市港で実習と称してその工事に携わり論文を書き上げました。大学院は日本沿岸の潮位の変化について修士論文を書き、その延長で潮位と海の構造物の規模について博士論文を作成しました。

大した研究実績は残せませんでしたが、在職中は米国の陸軍工兵隊海岸研究所への留学や中国西安理工大学との学術交流などに携わらせていただき、また国際会議への出席などで多くの友人を得ましたことに関して日本大学の皆様方に感謝申し上げます。

最後に日本大学理工学部土木工学科の益々の繁栄を心よりお祈りいたします。

小原 洪一

小原 洪一

元 東芝機械株式会社

機械工学科|1962年卒業

1945年の日本経済は大戦後のゼロからの立ちあがりで、朝鮮戦争による特需(~1953年)をはじめに好景気・不況が繰り返されながらも日本は右肩上がりの経済成長を続けていました。

1962年に卒業し、日本のモノづくりの中心となる製造業に就職した私たちは企業戦士のひとりとしてそれぞれ汗を流していました。1965~1970年の57カ月続いた“いざなぎ景気”はその後の第一次石油ショック、円高不況、平成景気~バブル経済(1986~1990年)そして2000~2002年と続く好景気・不況の繰り返しの中で、製造業の我々技術担当者は企業内の日大機械工学科卒業先輩・後輩との交流があったものの、学生時代以来の同期友人たちとのたまの付き合い以外はほとんどありませんでした。定年(2000年)近くになると同期(S37卒)との付き合も多くなり徐々に先輩方との交流も増えました。

S35年卒の同期会にS34年卒メンバーが合流し更にS36年卒、S37年卒の会が加わり、4学年合同の機械工学科ミニ同総会がおこなわれるようになりました。ミニ同窓会開催に当たっては各学年幹事合同による幹事会“とりあえず幹事会(略称:とり幹)”を結成し、2~3カ月に1回開催しています。幹事会は15~20名が集まりお互いの情報交換や次回のミニ同窓会の検討などをおこなっています。このメンバーを中心にしてゴルフコンペ(幹事:S34似田功、S37肱岡宏)や俳句の会(幹事:S34内田幸彦、新井鉄治、加藤泰治、S37長谷川裕)がおこなわれるようになりました。

ミニ同窓会では毎回、“若きエンジニア”の合唱によって会の締めをおこない再会を楽しみにしていますが、高齢化(80歳代)にともない参加者数が減少しています。今後、ミニ同窓会の開催は困難になると予想されます。しかし“とりあえず幹事会”は開催し日大機械工学科卒業生の交流を続けていきます。

梅原 秀之

梅原 秀之

電気工学科|1962年卒業

小学校5年で鉱石ラジオ、中学時代の並四・高一・5球スーパー(何れも真空管ラジオ)やテープレコーダー、高校1年に始まり今も続くオーディオ、2年の時のテレビ……、という具合に寝るのも忘れて作った。

そんな中、電気工学科の稲田先生と懇意だった大叔父から先生の研究や成果の話をよく聞かされたから、進学先はおのずと日大・電気工学科となった。電気工学科では「音響工学」に最も興味があり、「川村研(音響研究室)」での実験・研究に必要な超音波振動子、受波プローブ、超音波無響室、パワーアンプ、その他の多くの器材・装置を試行錯誤しながら製作したりした。

4年の時には川村先生のホストで「日本音響学会・研究発表会」が理工学部で開催され、我々学生も先生の指揮下、3~4週間に亘り夜遅くまで準備したことを思い出す。

大学時代は他の学生とつるんだ記憶は少ない。大学入学のころはテレビが一般家庭に普及し始める時期だったので、時間が許せば都内や近県でテレビの設置や修理をして回っていたからだ。卒業時にもらった「鯨井賞」の副賞書籍「精密常用対数表」は、60年にもなる現在でも使用している。かかる副賞を選んだ電気工学科の選択眼、これを大事に保存・利用してきた自分にも今更ながら感心する。

卒業後30年は、電子・通信・音響関係学会での研究発表等9件に始まり、デジタルIC・マイクロコンピューター・ICメモリー応用技術に関する著書4件(内、2万部以上発行されたベストセラー1件)、同技術講演・技術セミナー講師65件、同技術専門誌寄稿25件、同起業3社(内、同米国との合弁1社。もう1社では5年ほどの間に「日向研」院生数名にプログラム作成を手伝ってもらった)等々、コンピュータ関連技術の先導・発展にいささか貢献できたのでは? と思っている。

平成20年(70歳)までの18年間、電気工学科の非常勤講師として「コンピュータ・アーキテクチャ」も担当させて貰った。10年ほど前からは「駿音会(川村研OB高齢者会)」にも出席したり、あれやこれやで電気工学科とは誠に長く深い縁が続いている。

ここに、誇りをもって有意義な人生を過ごせたことを電気工学科新旧関係各位に感謝する。

庄司 秀夫

庄司 秀夫

日本大学名誉教授

機械工学科|1965年卒業 
機械工学専攻|1970年修了
1970–2009年在職|機械工学科

私は1964年、機械工学科4年次生の卒業研究では、恩師・粟野誠一先生が指導される「ロータリーエンジンの試作研究」の課題を4人の仲間と一緒に理工学部大島実験所(江東区大島)で、研究することが許されました。

粟野先生は「航研機」の長距離飛行世界記録(1938年)を達成した希薄エンジンの開発者です。粟野先生は実験・研究の目標を掲げさせ、失敗の連続であっても、諦めることなく継続して努力することを指導していました。学生に成功体験をさせることで、やる気を引き出し、自信をもたせる実践教育で非常に多くの優秀な業績を残した技術者、経営者を輩出されました。粟野先生から学んだ教育と研究指導を庄司研究室、飯島研究室でも実践させて頂きました。

二輪車、自動車の操縦・安定性の研究をしていた長江啓泰先生よりSAE InternationalとJSAE共同開催のSmall Engine Technology Conference(SETC)第5回大会(Yokohama, 1997)から積極的に論文発表をするようにと吉田先生と庄司に強い要請がありました。大学院生自身が実験研究の方針を決め、卒研生と一緒に苦労して実験を行い、その成果を国際会議で発表するプロセスは非常に教育効果があり、本人の自信となっています。また、先輩の学会での活躍が後輩に大きな刺激を与えています。その成果として歴代の大学院生の多くは優秀論文賞、優秀講演賞を授与して頂いています。

内閣府・戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)(2014年から2018年の5年間)でエンジンの熱効率50%達成をめざした。ガソリン燃焼チームクラスター大学16(燃料・ノック班)日本大学理工学部(機械工学科・飯島研究室)では、「過給可視化エンジンを用いたノック発生メカニズム解明」に関する研究で貢献した。

海外の学会活動(SETC)で、日本を代表して吉田先生、飯島先生はじめ関係者の皆様に長い間、全力投球で貢献して頂きお礼申し上げます。

担当科目 [学部]熱力学/熱力学演習/機械工学実験Ⅱ [大学院]熱機関特論Ⅰ・Ⅱ

角 耀

角 耀

AS技術士事務所 所長

電気工学科|1965年卒業

4年生になり宮川先生の研究室でお世話になることになりました。最初に研究室へお伺いしたときに、制御に関する本を5~6冊、目の前において、これから制御に関しての研究をしていくのでこれらの本を読んでおくように、ということで始まりました。今では本の題名など全く思い出せませんが「○○○制御」と制御という文字が入っていたのは記憶にあります。本の内容はとても難解で数式やグラフが沢山あった記憶があります。先生による制御に関しての解説を受け、今でも「PID」という言葉が強く記憶に残っています。夏休みに入る前に研究室に細長い装置が置いてあり、この装置の性能を検査することが研究でした。初めて目にするこの装置は空気で制御する自動制御に使われる「PID制御装置」とのことでした。あるメーカーの新商品でこの装置の性能を検証することが研究になったわけです。今まで本を読んだり先生の話を聞いたりしていたことから、PID動作すなわち比例動作(P動作)積分動作(I動作)微分動作(D動作)のことが少しわかっていましたが、実際の機能を持った装置を目にするのは初めてでした。命題の性能検証のためには先ずはこの装置を動作するようにしなければならないことから、圧縮空気が必要なためコンプレッサーによるシステムの設計や温度を制御する模擬装置を作成しました。この模擬装置がうまく働くようにするまでが一番大変だったことが記憶にあります。曲がりなりにも検証データはとることが出来これを基にレポートを完成させました。このことは偶然にも就職した三機工業株式会社で大いに役に立ちました。三機工業は建築設備も行う会社で建物の空調、電気、衛生設備工事の会社です。私が携わった昭和40年代の建物内の温度調整には空気で制御する装置が沢山使われていました。熱源からの温度と流量のデータ、空調機周りからの温度と流量のデータ、室内の温度のデータこれらのデータから制御装置によりバルブを制御するというように複雑なシステムを構築する事でした。研究室での講義だけでなく実際に現場で使われている装置を使っての試行錯誤したことが大いに役に立ちました。今でも圧縮空気によって動作した時のプシューという音が思い出されます。

大津 岩夫

大津 岩夫

日本大学名誉教授

土木工学科|1966年卒業 
建設工学専攻|1968年修了
1968–2013年在職|土木工学科

小生の専門分野である水理学は流水現象を解明し、これを水工設計に役立たせようとする学問である。

受け持った科目は1972年度が最初で、基礎力学、水理学演習、設計、実験であった。力学系基礎教科については、初学者に対して基礎原理を明確にし、実現象との対応をつけ、さらに演習による応用力強化に努めた。

研究面では、最初のテーマは「各種水路の射流から常流への遷移」であり、解明すべき現象を新たな物理的解釈に基づき普遍的に表示し、幾つかの論文に発表した。これによって1982年に粟津清蔵教授主査で工学博士の学位が授与された。

1980年代中頃、IAHR(国際水理学会)の論文誌 Jour. of Hydraulic Res.(JHR)に1976年の土木学会論文集(筆者著)と同一テーマの論文が掲載された。筆者のものは広範囲な系統的実験によって現象に統一的解釈を与えたものであるが、JHRのものは一つのケースのみの説明であった。日本の論文集とその英文要約版は海外では殆ど読まれていないことを知り、すぐに討議論文を投稿し、誌面上で議論した。以降、論文は1874年創刊のアメリカ土木学会(ASCE)論文誌 Jour. of Hydraulic Engrg.(JHE)やJHRを中心に投稿し、安田、後藤、高橋(正)各氏の努力と山中、羽柴、石川各氏の協力もあって種々のテーマの論文が掲載できた。

2000年、ASCEから驚きの知らせがあった。水理学論文最高賞(Karl Emil Hilgard Hydraulic Prize)を授与するということである。1939年のこの賞の制定以来、日本人の受賞は3組目であり、テーマは「急拡水路の潜り跳水(安田・石川氏と共著)」である。JHEにはもう一つの論文賞がある。それは水理学討議論文最高賞(J. C. Stevens Award)である。1943年、この賞が制定されたが、2005年の「階段状水路流への討議論文(安田・高橋(正)氏と共著)」が日本人として初めての受賞となった。さらに2013年、2回目のJ. C. Stevens Awardが授与された。テーマは「跳水内部のエネルギー消散への討議(安田・高橋(正)氏と共著)」であり、表面渦とエネルギー減衰との関係を流体力学的に説明したものである。

日本では大学の研究は東大・京大を中心とした系列や組織の中で進められる風潮が強いが、日大理工で独立独歩進めてきた研究が世界に認められ発信された。大学での職務の中、寸暇を惜しんでの研究であったが、未知な水理現象の解明に喜びがあるからこそ研究が継続できたと思う。

高田 邦道

高田 邦道

日本大学名誉教授

交通工学科|1966年卒業 
建設工学専攻|1968年修了
1968–2011年在職|交通工学科・交通土木工学科・社会交通工学科

交通工学科という名称に惹かれて入学し、「交通工学とは」を求めた半世紀を振り返り、理工100周年を祝いたい。一浪して第2回生として入学した。交通工学科のカリキュラムは、土木工学科の水工と発電を除く科目に、交通関連科目が1/5程度、付加されているだけであった。それだけに、交通工学とは何か、交通工学の社会的役割は、土木工学との違いは、そして就職先は、学生同士、教員との話し合い、そして教養雑誌を読み、追求した。卒業後、同学科の教員としても追求し続けてきた。

特殊な学科としてみられ、受験者数が伸び悩み、就職先に苦労したこともあって、小川元主任教授の提案で、京都大学の名称と同じ「交通土木工学科」に1980年改正した。卒業生挙げての大問題となったが、文部省(当時)の助言があったということで、議論を収めざるを得なかった。

この「交通土木工学科」という名称を巻内勝彦主任教授の時代に、「交通工学科」には戻せないが、将来を見つめて相応しい学科名に改称することになり、「交通システム工学科」と「社会交通工学科」に絞られ、当時学部次長の職にあった私に相談があった。これからの交通工学は情報システム技術の活用が必要になるので、「交通システム工学科」から「社会交通工学科」の順ではないかと意見を述べた。学科名称の改変は、「社会交通工学科」を最後にしたいのでということで了承(2001年改正)した。しかし、定年後、3度目の名称変更が行われた。理工学部内に「まちづくり工学科」を新設する際に、「社会交通工学科」とオーバーラップするので、名称変更の指導があったと聞く。

大所の思惑が分からないままに、60年の間に4つの名称を余儀なくされたが、4つの学科名称を統合した「わだち(轍)の会」の名称をもつ卒業生は、交通事故、交通計画、地球環境、高齢者交通などの分野で社会的使命を果たすべく活躍しており、日大理工200周年には、「交通工学とは何か」が解明されていることであろう。

真下 清

真下 清

日本大学名誉教授

工業化学科|1966年卒業 
応用化学専攻|1968年修了
1968–2009年在職|工業化学科・物質応用化学科

私は昭和43年3月に日本大学大学院理工学研究科修士課程修了と同時に日本大学に助手として採用され、爾来41年間理工学部にお世話になった。工業化学科(当時)に配属され、修士の時に指導を受けた和井内 徹先生の下で教育と研究に従事することになった。

私たちの研究室には物質の化学構造などの解析に必要な分析機器の一つであるプロトン核磁気共鳴(NMR)装置があった。昭和43年当時は全国的にもNMR装置を所有している研究機関は少なく、他大学の先生が見学に来ることもあった。しかしながら装置には真空管も用いられていて、それらが劣化してNMRスペクトルの分解能が悪くなったり、測定ができなくなったりした時は装置のメーカーのアドバイスを受け、秋葉原の電気街に行って真空管を求め、交換したものである。このアナログ的要素も持っている装置を操作して測定したスペクトルから、私のNMR法による有機化合物の定量に関する研究が始まったことを懐かしく思い出す。

昭和52年に学位を取得したが、それ以来退職するまで石炭化学の研究、バイオマスなどの未利用資源の有効活用の研究に従事し、研究を通して学外に多くの友人、知人を得ることができた。これも日本大学理工学部の教員であったからできたことだろう。

入学試験の方法の多様化によって入学して来る学生の学力には幅があり、これを考えないで授業内容を組み立てることには問題があるだろう。特に私の授業科目の物理化学のように数式を多く使う科目などは理解をさせることが難しい。しかし、私の努力不足もあって一律の講義しかしてこなかったことを現在では反省し、残念に思っている。

授業中に口笛を吹かれ、怒り心頭に発したこともあったが今ではそれも懐かしく思ったりしている。

後期高齢者の現在では教員時代の研究の事、教育の事、そして関連学会の仕事など困難な時もあったが、それが本当に懐かしく思い出される今日このごろである。

理工学部創設100周年本当におめでとうございます。益々の発展を心よりご祈念申し上げます。

上坂 洋司

上坂 洋司

1966–2012年在職|数学科

1966年4月1日23歳の私は理工学部数学科に副手として採用された。50年余におよぶ教員人生の始まりである。夜間部があり学生は個性的で苦労人が多かった。最初の授業。問題を出して、おずおずと、解いてください、と言ったら、短軀、縮れ毛、どんぐり目の学生曰く、「先生っていうものは、教えるものだ、学生に向かって解けとはなんだ」。昼も夜も授業をやった。授業は当時のスタンダード流儀でやった。基礎事項を述べ、次なる事項を定義する。命題を述べ論理的に証明して定理を得る、その繰り返しでさらに上位の命題を得る。学生が論理構成と命題の意味を理解しているかほとんど気にしなかった。科目を理解するには論理的全ステップを理解していかなくてはならない。私は学生時代理解できなかったが、受講学生は面白くもなく、こんな授業で数学を学ぶのか理解できなかっただろう。コンピュータの時代は始まっていた。プログラムを書くことから始まり結果を出すまで途中経過をすべて理解していなくてはならず、従来の数学学習と変わらぬ困難さがあった。20世紀もおわり、教授に成っていた。相変わらずの授業、どこか虚しい。学習中に分かった、出来たと思えるようにしたい。半導体素子の急速な発展。タブレットやスマホの登場。WindowsだMacだ。コンピュータは小型化し使用者の知的能力の一部であり、有機的に組み込まれた器官となった。レポートとして提出せよと問題を出す。検索して該当事項を探し、授業レベル以上の内容をカラー写真までいれてプリントして、優等生が提出する。私は不愉快だった。問題を出し計算せよ。タブレットやスマホで数式処理アプリを探し計算させ答える。不愉快だった。こりゃ数学か。学生は爺がなぜ怒るのか不思議がる。なんであれ結果がすぐ出て、楽しそう。アプリの構成まで理解してスマホを使っているのではない。いつもどこでも目をつぶっても操作できるまで訓練して結果を出してくる。土台には踏み込まない。それでも深奥まで入り込み開発する人が出てくる。AIは人間を越えるまで発展した。ならば基礎理解は、後にして、まず使ってみて、本当に面白いと思ったら難しい基礎に踏み込む人が出ればいい。そうか、スマホ風やり方で授業すればいいのだ。スマホ風授業はすでに行われているのかもしれぬ。悟っても退職教師ではすでに手遅れ。

飛坂 基夫

飛坂 基夫

飛坂技術士事務所 所長

建築学科|1967年卒業

私は、昭和38年に工業高校を卒業し、就職すると同時に理工学部建築学科二部(夜間部)に入学した。工業高校卒業時に何故か判らないが、研究をしたいと考えていた。国家公務員試験に合格し、建設省建築研究所から連絡があり面接試験を受けて採用になった。何の巡りあわせか判らないが、希望する研究畑に就職することができ、配属先が建築材料研究部で、コンクリート研究室の助手となった。

大学時代は、職場が中央線の大久保にあり中央線1本で通えたこと、大学に通学する職員は30分前に帰ることができるなど優遇されていた。また、職場には日大に通学する先輩が多数いて、試験対策などの情報が貰えて助かった。

学生時代の思い出は、入学したての頃、教室が満員で部屋の中に入ることができなかったことがあったが、時間が経つに伴って授業が座って受けられるようになった。仲の良い友人7人とその他の同級生が得られ、それぞれが専門領域で活躍し、困った時にはお互いに助け合っている。このようなことが日大の良い所であると考えている。

4年生になり卒業論文を書くことになった。職場で仕事として行ってきた「人工軽量骨材コンクリート」の実験結果をまとめて卒業論文にしたいと考え、笠井芳夫先生(松井嘉孝先生と同研究室)に相談して了解が得られ、職場の上司である白山和久先生に報告して進めることになった。仕事として行ってきた3年間の実験結果を基に、論文の章立て、内容、結論まで自分で考えてまとめ提出した。その後、2番目の上司である上村克郎先生がこの卒業論文を見て、「建築研究報告にしよう」と言われ、まとめなおして建築研究所の正式な報告書とした。

卒業してからも日大の建築材料・施工関係の先生方及び先輩方とは、各種委員会の場で一緒に活動することが多く、学位論文作成の際には叱咤激励を頂いた。

高校時代に研究をしたいと思い、それが実現し、大学の先生、上司、先輩、仲間の協力により自分なりに満足できる成果が上げられた。これらのことが日大の良い所であり、今も感謝している。

斎藤 暢郎

斎藤 暢郎

電気工学科|1967年卒業

昭和38年4月に栃木県佐野市から上京して電気工学科に入学し、大森から4年間通学しました。

1年次は世田谷文理学部校舎への通学でした。月曜日の1時限目(8時15分から?)は必須4単位の体育授業でしたが、担任が早田卓次先生で必ず出席の確認があり、その折代返がバレてお説教を頂きました。早田先生は翌年のアジア最初に開催された東京オリンピックの吊り輪で金メダルを獲得、遠藤幸雄先生が個人総合で金メダルと、我が日大は凄いなと感激しました。

2年次から御茶ノ水へ通学、やはり月曜日の1時限目からの山本滋先生の「交流理論」(必須6単位)で、虚数iと如何に集中力を高めるかの教えが今も忘れられません。川西健次先生の「電磁力学」(必須6単位)も1時限目からで、当時は朝寝坊の自分には眠い思い出でした(1、2年次は月曜病)。

4年次ゼミは山本研でしたが、山本先生がアメリカ留学の為、渡邉泰男先生にお世話を頂きました。

サークル活動では茶道研究会に入り結構熱中し、今も日本の総合芸術である茶道文化を楽しんでいます。

卒業後、渡邊先生の還暦祝宮崎旅行の後に、仲間とその家族が笑って楽しむ先生命名の「桜笑会」の集いを発足しました。今も先生亡き後も教えに従い、同伴での旅行、ゴルフ、懇親会等を楽しんでいます。

半世紀近く勤務した明電舎では一貫して発電制御の設計と試験に携わり、国内はもとより海外も含め発電設備現場へ出張、海外は主に発展途上国でした。その折に外から日本を見つめたとき、欧米諸国に遥かに遅れていた我が国が明治維新後に驚異の発展を遂げたのは、江戸時代でも世界に類のない庶民識字率70%以上に示すように、高い教育が大きな原動力となったことから教育最重要と認識しました。

現在は理工学部校友会元会長の同期早川清一様と電気部会理事として、昭和33年に発足した「桜電会」を毎年2回開催する幹事をしております。令和元年9月には大洗ゴルフ倶楽部にて第90回記念コンペを開催しました。

自分はまだまだ未熟と思っていますが、後期高齢者の仲間入りし鬼籍も近くなりました。「勉強量生涯同量」との説があります。学生時代の勉強不足を取り戻すにはあらゆる事に興味と疑問を抱き、ボケ防止のための勉強と健康に励まなければと思うこのごろです。取り留めのない勝手な思い出話でした。

小倉 正二

小倉 正二

アズテック株式会社 代表取締役

一般社団法人特許情報サービス業連合会 理事長

精密機械工学科|1969年卒業

精密機械工学科は、設立当初から電気工学的素養のある機械技術者を目的に設立され、電気工学の授業と機械工学の授業のカリキュラムが半々の構成だということが気に入って入学しました。当時の産業界では、機械技術者は電気に弱く、電気技術者は機械に弱いのが一般的で精密機械の設立趣意は非常に魅力的でした。

入学して高校時代と違うなと実感したことは、1年目の溶接作業と旋盤による加工の実技でした。高校時代の授業は、頭で考えるだけで、このような実技を体感したことがありませんでしたので、この経験により将来技術者として活躍するのだという自覚をすることが出来ました。

更に、精密機械の授業で得られたことで、社会人技術者として実践した大事な教本が3冊有り、今でもこの本を大切にしています。

その1冊目が『JISによる実用的な設計製図法』(茨城大学工学部製図研究会 編)です。

この本は、歯車やネジ等の部品の設計図面における形状表現の仕方や寸法の入れ方、設計方法及びその部品のJIS規格等が細かに示され、設計時の参考になりました。

2冊目は、『計測法概論』(眞島正市/礒部孝 共編)です。この本は、長さ、角度、質量、時間等の測定方法とその測定精度や測定値の取り扱い等が記載され、実際に機器を設計した時の製品の精度確認に必要な技術を開示しています。

3冊目は、『技術者の統計学』(依田浩 著)です。この本は実験計画法に関し、開発製品の上記長さ等を測定して、その値を統計的に処理して、その測定値を検定する技術になります。設計時に複数の設計値を仮に設定し、その中で何が一番良い設定設計値かの判定に使用します。私は、この3つの技術を使って磁気記録装置の開発設計に10年ほど携わってきましたので、精密機械での学習経験が実社会で発揮できたものと思いますし、電気技術者と一緒に製品開発するときにも駆動する電気制御回路等に違和感は無く、精密機械の授業内容には大いに満足し今でも感謝しています。

仲 滋文

仲 滋文

日本大学評議員/理工学部上席研究員/理工学部非常勤講師

物理学科|1969年卒業 
物理学専攻|1974年修了
1978–2016年在職|物理学科

私が理工学部に入学した前年は、日本中が東京オリンピックで沸きかえっていた。元号も改まり、令和2年に日本は再び東京オリンピックを迎える。私と理工学部の関わりは、二つの東京オリンピックの狭間にある。

地方出身者にとって、東京での生活は目新しく楽しいものであったが、学部4年次に学園紛争の嵐が吹いた。紛争の経緯はそれぞれの大学で異なっていたが、4年次の授業時間が危なくなり、都内のホテルで補講を受けるなど、平時には考えられない体験をした。恩師の後藤鉄男先生の謦咳に接したのも、このホテルでの補講授業であった。

大学院で帰属した研究室は、中間子理論でノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士のお弟子さんが多く、湯川精神が生きていた。この為、私の学位論文も湯川先生に影響される部分があった。これを湯川先生の研究会で発表した際に、“若い者はラジカルやね”と、恐らくは褒め言葉を頂いたのは、大学院時代の嬉しい出来事であった。

学位取得後に原子核研究所研究員を経て理工学部の助手になり、量子力学の演習から学部学生に接することになった。やがて講師に昇格し、量子力学の授業も担当するようになり、これが現在の大学院での授業にも繫がった。この授業の経験を元に、量子力学の本を書くことができたのは、幸いなことであった。恩師の後藤先生は早世されたが、ある雑誌に何れ本になることを狙った量子力学の解説「ħの世界」を連載された。後年、私自身も同じ雑誌で量子力学の特集を組んだ際は、特集のタイトルに迷わず「ħの世界」を選んだ。

講師の時代は卒業研究を通して多くの学生と接触し、大学院に進学した学生には専門的な指導を続けた。私の若い時代に指導した学生には傑出した人が多く、それぞれに成長して物理学科や量子科学研究所、更には他大学の教員となって活躍し、喜ばしい歴史を作った。研究室の夏の合宿を始めたのも、私が若かった時代である。合宿では院生に未完成の研究を発表させ、そこでの議論を論文完成に役立たせた。この合宿は現在も引き継がれ、修士・博士を育てる上での重要な研究室行事となっている。二つの東京オリンピックの狭間は理工学部100年の後半にあり、私自身が全力で学び、研究し、学生を育てた時代であった。

五十嵐 正夫

五十嵐 正夫

理工学部校友会 顧問

数学科|1969年卒業 
数学専攻|1971年修了

学生時代、f ( x )=0の数値解法(ニュートン反復法)に興味をもった。 x を求める事は、f ( x )の精度が喪失する x を手際よく見つける事を知った。それにはf ( x )の精度評価が必要である。精度評価には丸め誤差評価が伴い、当時2つの評価法があった。個別評価和と個別評価最大値である。

この評価に関し小さな結果を得た。従来の個別評価和を1/2とできたのである。論文は英語で書け、との先生の勧めにより情報処理学会の英文誌に投稿した。査読が一松信先生に回ったのが幸運であった。査読報告書は「アイデアは面白いが英文がお粗末である。書き直しなさい」であった。論文はJIPのvol.5に掲載された。査読者判明の理由は、査読報告書が手書き時代のためである。

研究が進み面白い結果が得られた。学会や研究会で講演させて頂いたが、反応はなかった。そこで無鉄砲にもAMSの雑誌に投稿した。当時この分野の雑誌は3誌あった。Math. Comp.、Nume. Math.とBITである。数学科の図書館にあったMath. Comp.に投稿した。査読報告がAir Mailで来た。「アイデアは面白いが英文がお粗末なので、書き直しなさい」であった。2回ほど書き直しを要求された。論文は同誌の42.165 (1984)に掲載された。数学科図書館で宇野先生から「掲載されたね」と声を掛けられたときはホッとした。と言うのは何時も「論文を自慢する輩になるな」と戒められていたからである。

論文が掲載されたのも査読者に恵まれたからである。査読者はProf. Water Gautschiだった。何回か研究会などでお会いしたが、気さくなスイス人で「SUDOKU」を休憩中に楽しまれ、「昔と変わりませんね」と声がけすると「五十嵐、メガネが変わった」と冗談を言われた。

論文掲載のお陰で、あちらこちらから「招待」が舞い込むようになった。招待と言っても「入国」してからの交通費補助が多かった。その折多くの日本人研究者と知り合いになった。その事は国内で仕事をするときの助けとなった。自慢めいた話になったが、論文によっては「I regret to inform you」もあった。その課題は創設200周年までに解決したい。

岩井 光男

岩井 光男

元 株式会社三菱地所設計

桜建会第9代会長

建築学科|1970年卒業

私が在学していた昭和43年は日大本部による使途不明金問題に端を発した日大紛争が全学的に広がり、理工学部一号館も学生によってバリケードが構築されて大学側と対峙していました。バリケードのなかでは学生が主体となって自主講座が開かれました。講師は前川国男、羽仁五郎、磯崎新、宮内嘉久、いずれも社会的影響力の大きい先生方でしたが、いままで建築学という専門領域のなかで物事を考えがちであった私に今までと違った世界を感じさせる講義でした。そこで経験したことがその後の私の人生に大きな影響を与えたと考えています。その後、小林美夫研究室で建築設計の指導を受けることになりますが、その選択はプロフェッサー・アーキテクトとして活躍していた小林美夫先生の作品にいままでの建築にない新しさを感じたからでした。当時研究室では数々の設計コンペに応募していて、学生であった私も手伝わせて頂きました。先生の設計思想に触れ、そこで経験した設計プロセスはその後の私にたいへん役立つものでした。昭和45年三菱地所株式会社の設計部に入社した私は翌年の日本建築学会の競技設計に応募して1等になりました。このコンペは橋本功(前川国男建築設計事務所)、芳賀孝和、鳥居和茂、多田公昌、益田譲治などバリケードのなかで苦楽を共にした仲間と一緒に勝ち得たものでした。私が受けた大学教育は必ずしも正規のカリキュラムに沿ったものではなかったが、バリケードのなかで真摯に議論を交わし合った自主講座の先生方と仲間、そして小林美夫先生との出会いが私にとって大きな財産となりました。私の仕事の集大成となったのは三菱地所の所有する東京丸の内の再開発プロジェクトでした。平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災による都市の壊滅的状況を目の当たりして三菱地所は所有する丸の内のビルと街を安全で快適な世界的ビジネスセンターとするための再開発を決断し、平成8年1月、私は旧丸ビルの改築プロジェクトを任され、丸の内再開発プロジェクトがスタートすることになりました。私の携わったプロジェクトは旧丸ビル、日本工業倶楽部会館、三菱一号館、東京中央郵便局など歴史的近代建築物の保存再生、再現を含めたプロジェクトで、これらの歴史的建築物を新しい街づくりのなかに活かしていくことが重要なテーマの一つでした。この一連の仕事にご助言を頂いたのが近江栄、山口廣の両先生でした。丸の内は明治、大正、昭和の歴史的建築物の残る景観によって歴史的な深みを持った落ち着いた街並みを形成していると考えていますが、これも両先生のご協力のお陰であり、お二人に心から感謝するとともに理工学部建築学科との縁を強く感じています。

白井 伸明

白井 伸明

日本大学名誉教授

建築学科|1970年卒業
1973–2016年在職|建築学科

筆者が奉職した期間は、1973年の助手に始まり、教授職にて2016年の退職まで43年間である。専門はコンクリート系構造物を対象とした耐震工学、破壊力学、計算工学などで、学部では構造力学や鉄筋コンクリート構造、大学院では鉄筋コンクリート工学特論や構造解析を担当してきました。以下では、在職中に特に印象に残った出来事・研究について振り返る。

最初は、建築学科学生を対象とした「ヨーロッパ研修旅行」での思い出である。これは建築学科の伝統的行事であり、ヨーロッパの歴史的に優れた建築物を体験する研修である。助手時代に約45名の学生を引率したときの出来事である。夕方、成田空港発の英国航空便によりロンドンに向け機内に搭乗し、高揚したざわめきも収まり離陸を待つ静寂。ややあって驚きのアナウンス「エンジントラブルのため欠航、退去し予約済みホテルで1泊せよ」との指示があった。翌日、代替飛行機で出発し、見学先の修正を加えて軌道に乗せることができた。この混乱を共有した学生とは一体感が生まれ、事故もなく有意義な旅を終えた。

2番目に実験施設の充実と研究プロジェクトについて述べる。1976年6月船橋校舎に「大型構造物試験棟」が完成した。大型構造物試験機(圧縮:10MN)、試験床、反力壁が設置され、多種の大型試験が可能となった。翌年、大型助成金によるプロジェクト「軌道上空間都市(トラポリス)の研究開発」が始まった。研究遂行に当たり、多入力振動試験装置と仮動的試験装置が開発された。筆者は後者の開発に携わり、この装置を利用した貴重な成果を得ている。

3番目に海外学術交流について述べる。1987年、理工学部はマサチューセッツ工科大学のメディアラボと学術交流を提携し、「メディア技術の開発」を開始した。筆者はこの提携に至る過程で、木下茂德学部長を団長とする調査団の一員としてメディアラボに随行し、メディア先端研究の現状を学ぶことができた。最後に、人材育成について触れてみる。今まで多くの学部ゼミ生や大学院生との研究を含め様々な活動を行ってきた。彼らに誠意をもって接し、各人の有為な才能を引き出すよう努めてきました。自慢できる点は、学位論文を指導した3名が大学の教員として教育・研究に携わり活躍していることである。

松元 重則

松元 重則

日本大学名誉教授

1973–2016年在職|数学科

私は1973年に奉職して以来、2016年に退職するまでの44年間、数学科で教員を務めてまいりました。この間数多くの学生、院生諸君、先生方とお付き合いいただきました。専門は位相幾何学および力学系理論です。学生諸君への授業では主として「代数学・幾何学」「幾何学」「複素関数論」を担当しました。

大学入学直後の数学の授業は高校時代にくらべて、レベルが1ランク高いものです。しかも突然にレベルが上がるので、この時期の授業の理解は大変で、大苦労された方々も多いと思います。私自身まさにそういう授業を担当していました。極力ゆっくりとした授業を心掛けてはいましたが、どのくらいの学生に理解してもらえたか、あまり自信はもてません。

半面数学のレベルが急激に上がるのは、極端に言えば、最初の1年だけで、その後は大学院に至るまで徐々に徐々に覚えるべきことが増えるだけです。ただし数学では自家薬籠中の物としたこと以外は、覚えようにも覚えられません。

この期間の担当のうち、一番印象に残るのは複素関数論です。早い段階で「コーシーの積分定理」が出てきて、それが全体の出発点となっています。いきなり非自明な定理から始まるというのは、関数論特有の著しい特徴です。その後に登場する様々な事象もそれ自体が極めて美しいのです。この美しさは、是非学生に伝えなくてはならないと思っていました。幸い当時のカリキュラムはゆったりしており、関数論は演習付きの通年の講義。これは他の大学の通常の時間の倍かそれ以上です。

そこで、授業に当たっては、たっぷり時間をかけて、複素数の初歩、曲線に沿った積分の初歩からやることができました。最初はとっつきにくいのですが、時間をかけて、適切な演習を混ぜながらやると、意外に多くの方々にわかってもらうことができました。

最近日大には、いろいろと逆風が吹いています。いやな思いをしている方々も多いと思いますが、「日本大学理工学部」には決して傷がついてはいません。学生諸君には、堂々と胸を張って学生生活を送っていただきたいと思います。

私は、数学研究を老後の楽しみとして続けております。冒頭に書きましたように、専門は、位相幾何学と力学系の出会う接点です。主として、多様体上に非コンパクトな群が作用するときに、その定性的性質を調べる事を、目的としています。年に1、2回は海外の研究集会にも出席しています。この6月にはメキシコに行ってきました。若い人が中心の集会でしたが、若者たちの講演の内容の深さに、感銘を受けて帰りました。

横内 憲久

横内 憲久

日本大学名誉教授

建築学科|1970年卒業 
建設工学専攻|1972年修了
1972–2015年在職|建築学科/海洋建築工学科/まちづくり工学科

平成時代の30年間を振り返って、「平成は少子化を傍観した時代」であったとした識者がいた。換言すれば、国民(為政者含め)は、少子高齢化対策をみて見ぬふりをしていたといえよう。国立人口問題研究所は、すでに昭和期に21世紀頃(実際には2005年)には、日本の人口は減少し始め、高齢人口が急増すると予測していた。このことは、当時はだれもが知っていたと思われるが、平成の初期は、バブル経済の真只中で浮かれ、マイナス要素などは眼中になかったに違いない。わが国は1960–70年代の高度経済成長期、バブル経済期など右肩上がりの経験から、なかなか脱することはできないようで、1991年にバブルがはじけて20年間もの低迷期でも、右肩上がりの政策を模索して、少子化問題は放置された。そのつけが現在社会問題化している、労働者人口の減少、その対策としての移民問題、税収の減少、介護問題、空家・空地問題、コミュニティの崩壊等々、根源は少子高齢化に尽きよう。

この問題を解決に向かわせるひとつとして、まちのコンパクト化とコミュニティの再生がある。器としてのまちをコンパクトにし、そこで暮らす人々の協同化を図ることである。この器とその中身である生活を一体として早急に実現化する必要がある。この考えをもとにつくられたのが、2013年創設の理工学部で最も若い学科の「まちづくり工学科」(以下、まち科)である。

私は理工学部には2015年に退職するまで44年間奉職させていただいたが、他の教員と異なった経験は、理工学部内で2つの学科と1つの専攻の立ち上げに関わったことである。1978年の海洋建築工学科、1992年不動産科学専攻、そして2013年まち科、これらのすべての1期生の学生との付き合いがある。準備期間が短かったのはまち科で、2010年教授会で開設の承認を得てから、文科省、大学(本部・学部)との折衝を繰り返し、やっと学生募集にこぎつけたのが、2012年の6月頃であった。周知期間が半年くらいしかなかった。それでも、2013年の4月には83名(定員100名)が集まってくれた。これが第1期生、感慨深い。110周年にはさらに大きく羽ばたいている姿をこの目で見たいものである。

千歳 喜弘

千歳 喜弘

マクセルホールディングス株式会社 取締役会長

ビークルエナジージャパン株式会社 取締役会長

物理学科|1971年卒業

私は入学後の教養課程で、文理学部と一緒に授業を受けていました。まず、最初に感じたことは、文理学部の学生たちは物理学の学生より、非常におおらかな印象だったことを覚えています。物理を追求しようとしている私にとっては、非常に刺激的で、まさに新たな世界が広がった感覚でした。私の学生時代は学園紛争の真っ只中、4年間の内、1年は授業を受けることができませんでした。学びたいという気持ちが強かったため、悩みましたが、大切な学生生活の4年間は絶対に無駄にできないと思い、時間を最大限有効活用しました。

私は京都出身ですが、折角東京で生活しているので地方では叶わない様々な学習方法を考えました。電算機(コンピュータ)の実用化が進んでいなかった時代でしたが、将来を見据え電算機の仕組みを知るためにプログラムの学校にも入学しました。また、科学基礎を学ぶために物理学を専攻しましたが、それでは視野が限られると思い、様々な分野の勉強を実践しました。経済の基本を身に付けるべきと考え、夜間大学で経済学(循環経済)を学びました。この経験は技術者、経営者になってからも大いに役立ちました。

大学は全国各地から学生が集まります。私は京都から初めて東京に出て、多種多様な学生がいることに大変刺激を受けました。授業では量子力学や熱力学など厄介な科目もあり、理解に届かないこともあったのですが、友人の助けもあり何とか消化することができました。この経験は、会社生活における人脈ネットワークの構築にも大きく役立ちました。

印象に残っているのは実験の経験です。今なら安全上できないような危険な実験をやっていたものです。うまく進まず失敗を繰り返しましたが、失敗から学ぶことが多く、結果よりプロセスが大事なのだと認識しました。

大学4年間は精一杯知識の吸収に没頭しました。社会に出てすぐに知識を活かす場面はありませんでしたが、年代を追うごとに学生時代に得た知識や経験が活きる場面が増えました。これからの学生も大学時代は我武者羅に知識を吸収してもらいたいと思います。知識は積分、その知識を知恵に変換することが重要です。

私は物理学を学んだ技術者として源流遡及という考え方を大事にしています。これから社会人になる学生に送りたい言葉は「博学であれ」です。次の日本を担う人財として、大いに頑張っていただきたいと思います。

本杉 省三

本杉 省三

日本大学名誉教授

建築学科|1972年卒業 
建築学専攻|1974年修了
1974–2019年在職|建築学科

楽しかったことは沢山ある。それらの中から特にあげると、設計ワークショップ(以下WS)と非常勤講師との交流だろうか。WSの最初はIBAベルリン国際建築展(1987–88年)。僕より先にドイツ留学していた小山明(現 神戸芸工大教授)が就いた教授がIBAのディレクターJ. P. Kleihuesだったのが縁で展覧会企画が持ち上がり、多くの協力を得て実現した。磯崎新による展示構成の他、学生が主体的に参加できるWS(H. Kollhoff、篠原一男、山本理顕 他)も日大理工5号館を主会場として実施した。各大学から集まった学生の中に田所辰之助(現 教授)がいた。その次がフジタ・都市講座(1994–96年)で、中心はレクチャー形式の公開講座だったが、後半は青木淳、J. Leiviskä、T. HeneghanらによるWSを2期に分けて実施した。そこに佐藤慎也(現 教授)も参加していた。J. Leiviskä設計のMyyrmäki教会が掲載されていた新聞をヘルシンキ行の機中で見て、直ぐに見に行き決めた。3度目TU DarmstadtとのWSのきっかけを作ってくれたのは花田和史教授(土木工学科)だった。M. Hauschild教授のTUDと日大理工が提携校だったことから話が進んでWS(1999年)に発展し、計3回日独で行い、彼とは家族ぐるみの付き合いになった。その次がTU Karlsruheで、この時の教授C. Kuhnが2013年からTUD教授になっているというのも因縁か。

こうしたことがあって、設計の授業にもできるだけ多彩な人たちに来てもらいたいと工夫してきた。雑誌を見て実際に行ってみたり、人に聞いたりして、この人ならという建築家にお願いしてきた。理工建築は学生数が多いので、その分非常勤も多く必要となる。非常勤選びには難しいところもあるけど、その分いろいろな建築家に来てもらうことができるという利点もある。非常勤の人たちは、常勤の教員にはない経験や問題意識を持っているので、うまく絡み合うととても良い流れを作り出せる大切な教育的財産だろう。非常勤・常勤が率直なコミュニケーションをとれる環境は、学生にとってもプラスに働く。そんな交流が私たちを育ててくれた。その中から更に著名な建築家として、また専任教員となった人たちが多く出て行ったことは誇らしい。

これらの経験からカリキュラムに取り込んだのがデザインワークショップで、そこでは非常勤の先生が課題から指導法まで主体的に組み立て、学生たちが普段の授業以上に集中して作業する。学年の枠を越えて自主的に学ぶ場になっている。伝統は新しいものを取り入れながら続けていくことで生まれる。そんな気風をますます発展させて欲しいと願っている。

代表的な建築家として、西沢立衛(西沢立衛建築設計事務所/横浜国立大学)、坂茂(坂茂建築設計/慶應義塾大学)、飯田善彦(飯田善彦建築工房/横浜国立大学)、曽我部昌史(みかんぐみ/神奈川大学)、小泉雅生(小泉アトリエ/首都大学東京)、高橋晶子(ワークステーション/武蔵野美術大学)、安原幹(SALHAUS/東京大学)らがいる。

野々下 力

野々下 力

機械工学科非常勤講師

機械工学科|1973年卒業 
機械工学専攻|1975年修了

日本大学理工学部創設100周年を迎えられ心よりお慶び申し上げます。

粟野先生には大学院での2年間、研究室でご指導をいただきました。この2年間は大学時代を含めた6年間の学生生活で最も充実していたように思います。研究室での最初の夏休みには先生のご指示で茨城県にある日本自動車研究所(JARI)に研究のお手伝いで1カ月程行きました。そこでは基本的な研究、実験方法および実験に対する考え方等を習得するため、JARIの寮に入り研究所の皆さんと生活を共にしました。JARIでは実験用システムの構築、実験、データ計測・解析と基本的なことを学ぶことができました。その他の思い出としては、先生からの突然のモノづくりの指示が何度かあったことです。

その一つ目は国立極地研究所からの依頼による熱交換器の腐食対策システムの製作です。その当時、南極の昭和基地ではお風呂のお湯は発電用のディーゼルエンジンの排ガスを利用した熱交換器で雪を溶かして沸かしていました。排ガスを利用していたため熱交換器は直ぐに酸化され使い物にならない状況になってしまいます。そこで定期的に熱交換器内に中和剤を噴射して洗うこととしました。そのシステムを設計、製造し、納入した件です。本件は短期間での依頼であり、南極観測船が日本を出港する前日にようやく納入できほっとしたことを思い出します。このような対応は会社ではよくあることで、今振り返ってみても、この時の経験がその後も役に立ったように思います。

二つ目はジェットエンジン用のノズルの噴射状況を計測するシステムの製造です。私は鉄工所から完成した噴射ノズルを設置する装置を引き取り、その当時動力計や各種実験装置の製造を行っていた大島工場に運んでまいりました。そこで整流装置、噴射状況計測装置等の設計、製造、動作試験を実施し、会社に納入しました。この時先生からは、納入先へ行って説明をしてくるように言われました。これは学生の身分でありながら出張という大変に貴重な経験をさせていただきました。この時の経験はその後の会社生活でも大変に役立ちました。

このように先生からは研究テーマについてのご指導だけでなく社会に出てから役立つことを数多く教えていただきました。それらについては思い出話としてだけでなく、改めて先生に感謝申し上げたいと思います。

加藤 透

加藤 透

セーフティ・マネージメント・サービス株式会社 取締役

精密機械工学科|1974年卒業 
機械工学専攻|1976年修了

松代研究室に籍を置いて、松代正三先生が以前勤務されていた通商産業省工業技術院計量研究所の材料物性研究室で卒業研究(昭和48年4月から49年3月)、修士研究(昭和49年4月から51年3月)を実施させて頂きました。

同期は松代研究室の4名で2つの研究室に分かれて所属していましたが、常に交流は欠かしませんでした。大学院生の先輩が矢張り1学年4人それぞれの研究室に2名ずつ所属していて、いろいろと面倒を見ていただきました。時々、大学の研究室で木幡先生に状況報告を行いましたが、松代先生は理工学部の業務のためあまりお会いすることが出来ませんでした。勿論、授業には参加しましたが。

卒業研究では並行バネ(板バネを2枚使用)による精度の高い移動方式の研究を行い、修士研究ではレントゲン写真のような超音波による透視画像を映像化する簡便な装置の開発を行いました。当時、高価な映像化装置としてはホログラフィが主流でしたが、液晶による画像への利用技術は未だ、研究段階で商品化はされていない時代でした。

どちらの研究も研究対象を測定する装置を研究所内で調達したり、調達できないものは研究所内の工場で手作りすることから始まりました。分析には当時、大学では珍しかった大型コンピューターを使うことも経験できました。

研究所の指導研究者のもと研究成果は定期的に研究所内発表会の後、当時の精密機械学会で発表することを求められました。発表資料は勿論、パワーポイントはありませんので、写真撮影、スライド作りから編集まで指導研究者のアドバイスを貰いながら、出来るだけ分かりやすく、研究目的と成果を伝える研鑽を積むことが出来ました。

内外どちらの発表の場も、専門研究者からの厳しい評価が待っていて、とても良い経験となり、その後、社会人になってから国際会議等でプレゼンをする機会の良い心の準備にもなり、とても感謝しています。結構、いろいろな懇親会にも多く参加させて頂き、研究分野の違ういろいろな研究者とコミュニケーションを図ることも出来て、測定技術をはじめ最新の研究情報を知ることが出来たことは懐かしく良い思い出となりました。

その後、研究所は経済産業省産業総合研究所として筑波に移転しましたので、研究所への学生の派遣はなくなってしまいました。

浜松 芳夫

浜松 芳夫

茨城大学名誉教授

電気工学科|1974年卒業 
電気工学専攻|1976年修了
2008–2020年在職|電気工学科

今回の執筆のお話をいただき、卒業生か元教員のどちらの立場からか迷いました。しかし、今年で44年間の教育・研究生活を終えるにあたり、この職業を続けて来られたのは本学を卒業したからと思い、卒業生と元教員の両方の立場からのお話をさせていただくことにしました。在学中、2年生から3年生にかけて趣味のアマチュア無線に夢中になり講義の欠席が増え3年生終了時の単位数は80台と卒業研究に着手出来ませんでした。4年生の担任の川村先生が4月のガイダンスで「皆さんは入学試験に合格して入学しました。がんばれば必ず授業について来られます」との言葉で、それ以降、講義には必ず出席し、復習も欠かさず行いました。その結果、4年目次終了時で150単位以上でした。その取得した単位の成績も良かったのが自信となりました。卒業研究では宮城研究室で変圧器の励磁突入電流の研究を行い、学会発表など成果を上げられました。修士を修了し、玉川大学に助手として採用されました。誰でも人生の中でいくつかの分岐点が来るものと思いますが、勤めて6年目に新しい研究テーマに着手しました。新しい研究テーマで先が見えませんでした。しかし、「やれば出来る」という学生時代の経験から研究テーマの変更を決断しました。その結果、北海道大学で工学博士の学位を取得出来ました。次の分岐点は10年後にやってきました。茨城大学に移るか迷いました。国立大学では今までよりも業績が求められますが自分の力を信じ、移ることを決断しました。そして10年ほど前に母校である日本大学理工学部に移りました。32年ぶりの御茶ノ水。自分が学んだ1号館は無くなってしまいましたが、懐かしさで一杯でした。10年ほどの短い期間でしたが、電気工学科の優秀な学生さんに恵まれ、多くの卒業生を送り出すことが出来ました。

私の教育・研究生活の基礎は、この日本大学理工学部で学んだことです。学生時代につかんだ自信、つまり自分の力を信じ、この道を進む力になったと実感します。そして、いろいろな人との出会いから影響を受け励まされ、その出会いに感謝しています。特に妻との出会い、そのサポートがあったからこそ自分の道に邁進することができました。最後に、教育・研究者としての自分を作る基礎も日本大学理工学部にあったと実感し、感謝しています。

植田 和彦

植田 和彦

株式会社ホルス 取締役

交通工学科|1975年卒業

土木系を志望していましたが、ただ構造物を作るだけ? と言うのは素直に頭に入らずに迷っている時、幅広い視点から「交通」を通して土木も学べる「交通工学科」が目に留まり入学をした次第です。ただ難儀だったのが通学に要する時間でした。

総武快速も東葉高速鉄道も開通前で、現 船橋校舎に大田区の自宅から通うには2時間以上、よく通ったものだとつくづくと思います。今では1時間強で可能との事、この「隔世の感」はインフラ整備50年の賜物でしょうか。

夕方帰宅時、西船橋からの東西線車中のワンシーンが思い出されます。荒川河口の葛西など沿道では埋め立て真っ最中。その中の高架を、これでもかとのスピードで走るアルミ製の軽量車両は大きく左右に揺れ、人がまばらな車内に夕陽が低く長く入り込みます。特異なモーター音、窓ガラス音や車両がきしむ音など今でも鮮明に蘇ります。何か感傷的になっていた当時の若い自分を思い出したりしています。

現 首都高速道路株式会社の入社面接では「通行する車両の交通運用と管理を行いたい」と答えたことをはっきりと覚えています。入社後は設計や施工の経験は少なく、幸いにも調査、計画、交通管制業務に長年携わり、交通情報の提供、交通安全や交通円滑化対策などを精力的に行って来ました。この「交通」業務を通して、同窓、各大学の先生方、国、警察や学協会など関係機関、各高速道路会社、建設コンサルタンツの方々との幅広い交流が出来たことは、私にとって貴重な宝物です。

領域分野が多方面に亘る社会工学である「交通」へのガイダンスとして、講座「交通総論」は1年次の必須でした。実社会を経験し顧みれば、卒業研究も含め4年間のどの講座も「交通」の各分野の扉を叩く程度のものでありましたが、「交通」全体を知るには有意義なものであったと感じています。今にしてみれば、もっと勉学に励めば良かったと後悔の念も残るところです。しかし、社会ニーズと技術革新により時代と共に「交通」は変化し続けます。改めて「交通」の勉学を再スタートとしても遅くないとも考えています。

4年間一緒に学び遊んだ仲間10名程とは交流を続けており、現在では連れ合い、子供、孫など三世代に亘る30名で夏合宿と称して集まり、また春はタケノコ、秋は栗と土浦の先輩の里山に伺うなど頻繁に動き遊び回っています。

私にとって、「交通」は縁の切れない一生のキーワードです。

馬場 恵美子

馬場 恵美子

理工学部校友会 顧問

数学科|1975年卒業 
数学専攻|1977年修了
1978–2016年在職|数学科

私が日本大学理工学部の数学科に入学しましたのは1971年です。学部、修士課程を通して菊地重隆先生のゼミに所属しておりました。菊地先生はリーマン幾何学を拡張したフィンスラー幾何学をご専門に研究されておりました。修士課程では「リーマン空間の超曲面上のベクトル場に関する法曲率」というテーマで菊地先生のご指導を受けました。

修士課程修了後、都内の公立中学校で非常勤講師をしておりました。ある日、菊地先生から「数学科の事務室の仕事をしてほしい」というお電話をいただきました。最初に夫に対して「数学科で働いてもらっていいですか」というお話でしたので、夫は大変驚いたようです。菊地先生世代のお考えかと思いますが、結婚後は女性が働くことにあまり賛成されていなかったようです。世の中では、女性が男性と同じように働くという機運が盛り上がりつつあった時期ですが、先生なりのお考えがおありになって、共働きの了承を得たのだろうと思います。女性の社会進出が進んできた現在では、理解しがたいことですので、とても印象に残っている先生との思い出です。

このような経緯で、数学科の事務室と図書室の仕事をすることになり、それから39年もの長い間、数学科でお世話になりました。数学科図書室は、理工学部図書館とは別に数学科の研究室の並びに学科図書室を設けております。基礎的な書籍、専門書、貴重なKnopp全集など、幅広く開架されており、先生方をはじめ、学生、院生、卒業生のみなさんに広くご利用いただいております。また、ご退職された先生方や卒業された方たちとの交流の場にもなっております。他大学と比較しても、数学科で独自の図書室を保持していることは貴重なことと思います。

2018年に新校舎「タワー・スコラ」が新設されるまで、図書室は5号館から日立ビル、9号館、7号館、お茶の水校舎へと何回もの引っ越しを経験した後、点在していた数学科図書室が念願かなってワンフロアにまとまりました。

長年にわたり数学科事務室および図書室の仕事ができましたこと、卒業生として誇りに思っています。これからも、理工学部校友会や数学科桜数会に微力ながら貢献していきたいと思います。

内田 守彦

内田 守彦

ウチダテクノサイエンス技術士オフィス 代表

精密機械工学科|1976年卒業 
機械工学専攻|1979年修了

私が入学した昭和47年の船橋キャンパスは、校舎は充実していましたが、キャンパスライフのソフト面では、クラブや同好会の数も限られ発展途上でした。私は旅行や登山が好きだったので、1年生時に「ユースホステル研究会」に入会しました。同研究会に不満はありませんでしたが、キャンパスの発展には選択肢が多くあった方がよいと考え、2年生時に「ハイキング同好会」を創設し、初代会長として力を入れて活動しました。船橋校舎のキャンパスライフの向上に少しですが貢献したと考えております。

学業では、振動乗り心地の権威である故 吉田義之先生の研究室で、学部では「低周波加速度振動の人体への影響」を、大学院では「低周波加速度振動計の研究」を行いました。振動計の構造及び電子回路の設計知識を得たことは、就職先で大いに役立ちました。私が就職したのは当時、クラリオンガール(キャンペーンガール)で有名であった、車載音響機器メーカーの「クラリオン」です。私に車載CDプレーヤー用の光ピックアップの開発が命じられました。光ピックアップは、数ミクロンのビームスポットで光ディスクの情報を読み取るセンサーです。従来の車載用CDプレーヤーでは家電用の光ピックアップを応用したものが使われ、自動車走行時に振動で音飛びを起こしやすいものでした。開発の結果、従来品より2倍近く耐振特性(音飛び)が良く、かつ、低価格化を実現できたことで、当社に多くの利益を生み出しました。社内で高い評価を受け課長、部長と昇進することになりました。光ピックアップの構造は、振動計から力量検出器を取り除き、重しであった可動部にレンズとコイルを付け、静止側にマグネットやヨーク、並びにレーザーダイオードや受光素子などの光学素子を組み付けたものです。加速度感度の向上、サーボ制御時に可動部が共振を起こさないように、可動部を軽量かつ高剛性にすることがポイントです。大学で学んだ振動計の知識が活きました。

吉田義之研究室での私への実質的な指導は、当時、講師をされていた町田信夫先生(現在、日本大学名誉教授)です。会社勤務では、会話をする相手がいつも同じで限られるため、考え方の幅が狭くなり、かつ、周囲の考え方に染まる傾向があります。そのような時に、大学を訪問し町田先生とお話しすることで、考え方の新しい視点・示唆を得ることができました。町田先生には、48歳での会社退職・独立を含め様々なご相談をさせて頂き、大変お世話になり、深く感謝をしております。

日本大学理工学部で学べたこと、優れた恩師との出会いが、私の人生の糧になっています。

堀池 達

堀池 達

元 株式会社本田技術研究所 二輪R&Dセンター 上席研究員

精密機械工学科|1976年卒業 
機械工学専攻|1978年修了

私は自動車が好きで、またオートバイにも乗っていましたので、四輪車と二輪車の研究をやっておられた当時の景山克三先生の研究室に大学院生として入らせていただきました。いろいろと自動車工学を勉強していくうちに二輪車の研究に興味を持ち、大学院2年生の時に、景山研究室で二輪車の研究を指導されていた長江啓泰先生が研究室を独立して作られるのと同時に私も長江研究室に移りました。

当時の私の研究テーマは“二輪車の運動特性の解析”でした。私の前年度の先輩は基本的な二輪車の運動特性を、自転車を使って解析していましたが、私の年度からオートバイを使っての実験をスタートさせました。

先輩たちも計測装置の製作などで苦労をされていましたが、我々もオートバイの実車を使っての初めての実験でしたので、実験方法や実験環境も自分たちで考え作らなければなりませんでした。大学院生は私一人でしたが、当時研究室にいた4年生4名と本当に夜遅くまで議論をし、手作りでいろいろと作り上げていきました。その時の4年生とは今でも連絡を取るほど本当に良い仲間でした。一緒に研究が出来たことに感謝しています。

長江先生のご指導は、実験の方法や結果の解析について「ああしたほうが良い、こうしたほうが良い……」といったものではなく、先生からはヒントを頂きながら我々に自分で考えて物事を進めさせるようなやり方で、常に指導をしていただきました。

先生に指導していただいた“ものを進めるにあたっての基本的な考え方”は、その後実社会に出てからの私にとって非常に大切なものとなりました。まさに「自分で考え自分で行動をする」という姿勢で仕事が出来ました。新機種の開発責任者や部門の責任者を務めるにあたっての心構えや考え方の基本となっていたと思います。

日本大学理工学部には、“自分で考え自分で進める力”を作り出すパワーを与えてくれる自由な環境や文化があると思います。「機械工学」という学問は、我々自身の可能性を大きく広げてくれる学問です。現役の皆さん、明るい未来に向けて頑張っていただきたいと思います。そして、理工学部としても伝統を大切に、優秀な学生を今後とも継続的に社会に送り出していただきたいと思います。

杉山 知之

杉山 知之

デジタルハリウッド大学 学長

建築学科|1977年卒業 
建築学専攻|1979年修了
1979–1990年在職|建築学科 1993–1995在職|短期大学部建設学科

建築学科に入ったのは、建築設計をやりたかったからだ。それゆえ設計製図の課題だけは、家で三日三晩徹夜で仕上げたりした。そこは大学生として頑張ったところだった。しかしながら建築設計について勉強を重ねていくに連れ、世界的な建築家と自分との果てしない差をはっきりと思い知らされることにもなった。建築設計士になれるかもしれないが、それは建築家になるということとイコールでは無いのだ。

そんなときオイルショックが起き、建築設計事務所からの求人は極端に減った。僕は四年生となり卒業制作でお世話になる研究室を決める時がきていた。そのとき就職のことを考えて研究室を決めるのではなく、自分の好きな音楽に繫がる卒業研究をやってみよう決断した。実はそんな研究ができる研究室があるのかどうか下調べもしていない駄目な学生だったのだが、建築学科には木村翔教授が率いる建築音響研究室があった。最近取り壊された5号館8階に研究室の看板があり、その名前を見た瞬間ここしかないと思った。面接は院生がやってくれた。僕はオーディオ好きで、さらにバンドをやっていて、音響機材に明るくて、ハンダゴテも使えると力説した。そこを気に入ってもらえたようだった。

研究室の所属が決まり、初日に院生に連れていかれたのが、5号館9階にあった建築学科の電子計算機室だった。そこに富士通のFACOM 270-30という電子計算機が鎮座していた。その頃の計算機のオペレーションシステムは、ひとつずつプログラムを順番に実行するものだった。主に構造系の研究室の院生たちが根城にしていた計算機室で、関口克明先生の指導を受けてプログラミングを覚えていった。自分の書いたプログラムを穿孔機でパンチカードにして、計算機に読み込ませる。そこから計算が始まり、磁気テープがくるくる回ったりして、最後にラインプリンタに計算結果が印字される。その工程は、ときに数時間に及ぶ。その間中、自分が計算機システム全体を専有している状況になる。日中、プログラミングとデータ作成をして、穿孔機でパンチカードを作って、夜中に計算を実行させる。徹夜で計算機のお守りをする日々が続いた。建築学科が富士通に支払っているレンタル代を知ったとき、僕は大学4年生の最初の2カ月で4年間分の授業料を取り戻したと理解したのだった。

卒業研究で取り組んだ計算機の中にこれから建設される音楽ホールの三次元データを入力して、その中の音響状態をシミュレートするというのは、その後40年続く僕のヴァーチャルリアリティに関する研究開発の基礎を築いてくれた。良い音が好き、という建築学科とは一見関係が無いように思えることから、研究室との出会いがあり、音響の研究が大好きになり、大学院に進学し、そして助手として理工学部に就職することになって、それが現在に繫がった。専門の教授の下で卒業研究をやる、これこそが大学生としての醍醐味であるし、大学が世に存在すべき価値なのだと改めて感じる日々だ。

久保 武良

久保 武良

セントラルエンジニアリング株式会社

精密機械工学科|1977年卒業 
機械工学専攻|1979年修了

日本大学理工学部創設100周年おめでとうございます。

高校時代とは全く違い、社会人として役立つ専門知識を身に付ける、それが大きな違いで、意識することなく入学しました。

精密機械工学科でよかった。今までとは違う仲間ができ、大学へ通うことが楽しかったです。若い時の特権でしょう。未来に向かって邁進する一歩一歩に希望がありました。

次世代が求める機械、情報、電気・電子などの多分野に精通したエンジニアになれるよう、基礎工学に重点を置いたカリキュラムを学ぶことができ、知らずのうちに自分を形成し、明日への糧に繫がっていきました。

機械製図では図面を手書きするため、鉛筆の研ぎ方、筆圧のばらつきがあるときれいに書けない、鉛筆の傾け方も学びました。何より対象物を投影し図面化するのが苦手でした。

工作実習実験では「つなぎ」の作業着を着て、フライス盤、旋盤、アーク溶接などを実習しました。独特な機械油の匂いでした。すごく上手にできる仲間がいましたね。

中でも特に印象に残る事といえば、4年生で計測と制御の研究室へ配属してもらい、生涯の師ともいうべき松代正三先生、木幡正敏先生に出会えたことです。

特に理工学部次長の松代先生は人間的に大きな先生で、先生のお人柄は、我々学生に大らかさと希望を与えてくれました。しかし忙しい人でした。身近で一緒にいて一番面倒を見てくれた木幡先生には、「制御系の設計手法に関する研究」などで背景、理論、実験評価に関してご指導いただきました。なかなか理解できず難しかったことが目に浮かびます。社会人としての心構え、思いやりや気遣い、先輩後輩との付き合い方など、これからの社会へのイロハを教えてくれたと思っています。

研修旅行では軽井沢研修所はすばらしく、朝は心地よいBGMが聞こえ、自然と目が覚めます。勉強会をやり仲間とのすばらしい思い出を作りました。研究室内では今後の人生について語り合い、よく遊びよく親睦を深めたものです。

卒業後はソフト技術者として会社にお世話になりコンピュータ制御による電子交換機、地図が簡単に描けるワープロ、そして公共事業に欠かせない防災システムなどに絡むことができました。

今でも他学科の横断的な校友に恵まれ、楽しいお付き合いの中、人間性を高めることができ、人生での大きな財産となっています。

最後に、当時ご指導をいただいた多くの先生方に感謝を申し上げます。日本大学理工学部のさらなる発展を祈念いたします。

春永 吉雄

春永 吉雄

株式会社東照明 取締役社長

電気工学科|1977年卒業

時はガロの学生街の喫茶店があちこちに流れていた70年代、北習志野の理工学部校舎に通学し、翌年学窓が駿河台に移った頃です。

家がお茶の水の神田明神下の秋葉原ということもあり、前後期の試験の頃は、我が家は自然発生的に集まった連中が出入りする下宿所に変貌しました。夜中にはお腹が空くとやっちゃ場(当時あった神田市場)の屋台ラーメンを食べに行ったり、当時珍しかった四谷の24時間営業の店へ買い出しに行ったものでした。窓に石が当たる音がすると日大の他学部の仲間が餃子を差し入れに来たこともありました。灰皿は吸い殻の山、決して勉学の為に大学に通っていた記憶のない、単位獲得に渇望した連中の集まりで、互いに困難を乗り越えた仲間でした。

そんな中、待望の宮城研究室に入ることができました。研究テーマは、「海水を導体とした電磁推進力」で、超高速のリニアモータカーが現在実現していますが、あれの水中バージョンです。EIケイ素鋼板(コア)を積層し、両脚には予め空隙を設け、コイルを何層にも巻き付け磁界の発生元を製作します。空隙には、両壁に電極を配置した海水を流す導水管を配置します。フレミング力を利用した海水中での推進力を発生させる装置です。購入した海水の素で海水を作り、それを木製の容器に入れ、コアは浸水を避け空中に置き、導水管部のみ海水に浸した実験装置です。実験中、脇の電源盤と海水に両手で触れ感電したことがあります。怖い体験をしました。実験の結果は、かなりのスピードで海水が流れましたが、一気に海水温度が上がり瞬間湯沸かし器の出来上がりとなりました。これが潜水艦の推進装置になることを期待して卒業した次第です。その後、何年か経ってだと思いますが、当時の商船大学で潜水艦ではなく、リニアモーター船を作ったと聞きました。

卒業後も、皆結婚を経て家族連れで年に一度は旅行に行くことが何年も続き、今も時折集まっています(自分を入れ8人で、八人衆会)。

そんな仲間と学んだ当時の宮城研究室は、宮城先生・木方先生・井上先生・鈴木先生が在籍しておられました。今思うと、大変良い先生方に恵まれ、研究室の雰囲気もとても良く、つくづく良い時代を過ごさせて頂いたと思います。

最後に、昨年亡くなられた電力研究室の鈴木勝行教授は、我が仲間八人衆会全メンバーの卒業論文のご指導を頂いた先生です。ここに、感謝とご冥福をお祈り致します。

小倉 宏明

小倉 宏明

佐野日本大学中等教育学校 校長

物理学科|1978年卒業 
物理学専攻|1980年修了

19歳の時です。本屋さんでふと目に止まった本が「プラズマ核融合」です。核分裂については高校の授業で少し学びましたが、核融合とは何? プラズマって何? と引き込まれるように読み進んでしまいました。そして本の中に日本大学理工学部のプラズマ実験装置を見つけ、なんと先進的な大学なんだろうと興奮したことを覚えています。4年生の卒研では、迷わずFG(fusion group)に所属しました。日本はエネルギー資源に乏しく、化石燃料が枯渇すればお手上げです。しかし海水中にある重水素を燃料とする核融合は、周りを海に囲まれている日本にとってはこの上ない夢のエネルギーです。太陽のエネルギー源は核融合反応ですので、当時、核融合研究は「地上に太陽を」合言葉にして、国家プロジェクトに匹敵する研究としてスタートしたと認識しています。

研究室は船橋校舎にある野木靖之先生のところに決まり、3年振りに御茶ノ水から習志野に戻ってきました。4年次から、大学院のM1・M2時代、そしてD1まで足かけ4年間、船橋校舎に通い続けました。実験は始まると数カ月間続きます。特に学会前は忙しかったです。アパートに帰る時間も惜しみ、研究室にもよく泊まりました。毎日夜遅くまで議論をしたことを覚えています。今の時代では許されないかもしれませんが、驚くことなかれ、秋には実験棟の周りにキノコが生え、それを摘みにお酒を飲んだことが懐かしい思い出です。

装置はFRCであり、阪大の伊藤研とアメリカ・メリーランド大学と競合しました。当時リニア型の閉じ込め時間は10µs程度でしたので、FRC装置になり、30µsまで閉じ込めることができた時はとても興奮したことを覚えています。事情によりD1で中退しましたが、船橋の研究室で学ばせて頂いた4年間の研究生活は本当に楽しく、充実した日々でした。

現在私は、日本大学の26ある付属校の一つ、栃木県にある佐野日本大学中等教育学校の校長として勤務しています。SSHに指定されている佐野日本大学高校に勤めていた時、物理の授業中、加速度についてふと疑問に思った生徒が研究を深め、その成果がSSH校の全国大会で第1位に輝いたことが良き思い出の一つです。昨年、仕事で久し振りに船橋校舎を訪れ、研究室にも寄らせて頂きました。私が当時名付けた装置の名前(NUCTE)が40年経った今でも引き継がれていることに驚きと感動で、胸が熱くなる思いでした。理工学部の益々のご発展をお祈りいたします。

佐野 克彦

佐野 克彦

公益財団法人東京都公園協会 理事長

土木工学科|1979年卒業 
土木工学専攻|1981年修了

私が在学中の土木工学科では、1年生は習志野校舎で学び、2年生からお茶の水校舎へ移るという仕組みでした。「必須科目の単位を落とすと、習志野校舎に通わなければならない。移動時間を浪費するのでお茶の水での単位取得にも影響が出て、4年での卒業が難しくなるらしい」。新入生の時は皆でこんな話をし、気を引き締めていたのを思い出します。

その必須科目の一つに岡積教授の測量学がありました。実習は二子玉川まで移動し、瀬田地区や多摩川沿いで行いました。習志野からの移動には長時間を要し、実習内容もハードでしたが、皆、単位を落としたくないので必死でした。ある時の課題で、私の班は瀬田にあった大平元首相のご自宅敷地周りをトラバース測量と平板測量するというものでした! よくそんなことが許されたものだと思います。牧歌的な時代だったのですね。無事に単位を取りこぼすこともなく2年生になれた時、大変晴れがましかったのを覚えています。

大学院では交通計画に興味が湧き、当時、東大から教えに来られていた八十島教授のご指導を受けました。頭だけで理屈っぽく考えようとする私に、先生は現場に出て観察することの重要さを説いてくれました。「現場へ行き、一日中、車の流れる様子を眺める。すると様々なヒントが見えてくる」と。そして交通工学科の高田先生と科学警察研究所の村田先生の下で、みっちりと交通調査とデータ解析を仕込んでいただき、修士論文をご指導いただいたのです。今もその時のデータや論文を大切に持っています。

測量も交通計画も、フィールドワークがいかに大切かを教えてくれました。卒業後、東京都に奉職した私は、道路整備の部署に配属され測量係も経験しました。トランシットと鋼尺を用いて道路計画線を示すなどの現場業務もお手の物でした。後年、都市計画の仕事で交通量調査やデータ解析などの業務に携わった時にも、母校で培った知見は大いに役立ちました。振り返れば「人生は繫がっているんだな」との思いを強くします。創設100周年の今の学生たちも将来きっと同じ思いを抱くに違いありません。何十万もの学友の「人生の軸」を創り続けている母校に心から感謝と敬意を表します。

福田 富一

福田 富一

栃木県知事

建築学科|1979年卒業

時間の使い方は自分で決めよ

大きな不安を抱えて、建築学科二部に入学し、物理学の初の授業に出席した。その教授は、いきなり次の様に話された。「私は赤点は付けないから、今最も大切な事に時間を使え。アルバイト、マージャン、デート、眠る等、授業を受けることより大切だと思うことに時間を使いなさい!」

この言葉を聞き、大人とは・生きるとは、瞬間の連続である時間の過ごし方にあるのだと教えてもらった。大学などと思っていた自分は、入学できた事に感謝した。

それ以来、「今何をすべきか、何が一番大切か?」を考え、時間の使い方、すなわち物事の優先順位を決めて人生を貫いてきた。後悔せず振り返らずである。(反省は連日であるが?)

昼間も夜間も同じ教科書を使い、同じ教授陣が教える。誇りを持って学べ

建築史の近江栄教授は、「昼間も夜間も区別はしない。しかし、夜間は70分授業なので昼間より20分短い。例年4年で卒業できるのは3分の1しかいない。その3分の1に入ることができるよう頑張れ!」と励ましてくれた。栃木県庁職員と夜学生の2足の草鞋のため、1日約5時間、バス、電車、地下鉄を乗り継ぎ、定期券4枚を持つ身として、何としてもその3分の1に入り4年で卒業すると自分に言い聞かせた。

約210名の入学生があり、4年で卒業した者は70名程度だった。今も卒業シーズンになると、製図や実験のレポートが未提出で卒業できない夢を見て、朝胸をなで下ろすことがある。

今日は駿河台予備校のマラソン大会か!

夜学生の体育の授業は主に屋上だったが、御茶ノ水駅付近を走るという時もあった。その時通行人が発した言葉が予備校のマラソン大会か? であった。4年で卒業の決意に対し、更に強く背中を押してくれた一言でもあった。

過日、日光市内で通信教育学部校友会関東ブロックの交流会に日本大学栃木校友会支部長、栃木県知事として3度目の出席をした。大半が同年代以上の方々だったが、紅葉を楽しみながら、和やかなひと時を過ごさせてもらった。

国内外どこに行っても校友の方に巡り合い、すぐに打ち解け人生を楽しみ合うことのできる日本大学の力は、私の生きる源泉となっている。

太田 延幸

太田 延幸

ユカインダストリーズ株式会社 代表取締役

工業化学科|1979年卒業

日本大学理工学部創設100周年、誠におめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。私は昭和50年に短期大学部応用化学科に入学した後に、昭和52年に理工学部工業化学科(現 物質応用化学科)に編入し、昭和54年に卒業しました太田延幸と申します。

日本大学に入学して40年を超える年月が過ぎましたが、学生時代を思い出してみます。その頃は、新京成北習志野駅から凡そ30分かけて歩いて通った習志野校舎(現在の船橋校舎)の一番奥の9号館4階の一番奥の教室(要は習志野校舎で一番遠い教室)に通学していました。短期大学部2年生の有機化学の授業だったと思います。授業初日の冒頭に「今日は何の講義をしましょうか?」とふざけた事を言われた教授がいらっしゃいました。その先生は板橋國夫教授で、その時が先生との初めての出会いでした。その時は「フェノールの合成」の授業をすると既に決められていらっしゃったと思いますが、私を含めたポワ~ンとした学生に対して興味をひかせるための手法だったのだと思います。その出来事以来、私にとって印象深い先生となり、理工学部編入後の卒業研究で、板橋研「有機合成研究室」に入室するきっかけになりました。

当時の有機合成研究室では、主に硫黄(S)と燐(P)の有機化合物の合成について研究しており、私は硫黄化合物の合成を担当しました。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、有機硫黄化合物は強烈な臭いがする物質が多く、研究室の香りは今でも脳裏に残っています。そのような研究室で、卒業研究はもちろん、鍋を囲んでの飲み会や尾瀬への旅行などの行事もあり、充実した1年を過ごさせて頂きました。研究室での卒業研究の際に、ガスクロマトグラフという分析装置で合成した化合物を確認し、ガラス器具と真空ポンプを用いた減圧蒸留操作など学生実験では経験出来ない事を勉強させて頂きました。この時に得た経験が現在勤めている会社の業務に大いに役立ちました。研究室でご指導いただいた、板橋教授や滝戸名誉教授などの学科教員の方々にはお世話になり感謝申し上げます。ありがとうございました。

最後になりますが、日本大学理工学部の益々の発展と、社会で活躍できる多くの卒業生の排出を祈願して、思い出話の終止符とさせて頂きます。

糸魚川 貢一

糸魚川 貢一

株式会社東海理化 エレクトロニクスセンター エレクトロニクスデバイス部 技師

電子工学科|1982年卒業

私は、1978年4月より千葉県習志野校舎で、新たに授業開始された電子工学科の一期生で、同期は80名ほどいたと思います。新しくできた学科のため、企業から来られた新任の先生の下、真新しい実験機器を使い講義を受けました。世の中は、これから電子化が進んでいく時代で、ようやくパーソナルコンピュータとして、NECのPC8801やPC8001が出始めた時期でした。

研究室は、磁気に関わる研究を中心に実施していた川西・伊藤研究室(川西健次先生、伊藤彰義先生)で、私はその中で磁気テープに代わる磁気記憶媒体の研究の一部を担当していました。卒業研究テーマは、「磁性ガーネット薄膜の光磁気読み出し特性」でした。研究室では磁気記憶媒体の磁性ガーネット結晶も自前で作製し、私はその読み出し特性評価を担当しました。磁気光学効果を利用して磁化情報を読み出すためレーザーが必要であり、レーザー冷却用の水道が止まっても良いようにバケツを貯槽とし、ブザー式の水位警報装置を自作したり、読み出し特性を取得するための試料振動機構を圧電素子で作製したりと、授業で習ったことを色々と実践させていただきました。また、学部生でしたが、電子通信学会(現 電子情報通信学会)でのオーラルでの発表も体験させていただき、毎日が忙しくも楽しい日々でした。研究室では、朝早くから夜遅くまでの実験・評価の生活だったので、会社に入ってからの残業等は、ほとんど気になりませんでした。

また、イベントとして野球大会やハゼ釣り大会、夏休みは軽井沢の研修所での輪講等の交流活動が色々と催されており、チームワークを高めることに一役買っていたと思います。

私の会社での最初の配属先が研究開発部門であったこともあり、地元の大学との共同研究の成果をまとめ博士号も取得することができました。これも、当時御指導していただいた先生方や諸先輩のおかげだと思っております。今も当時の研究室の仲間とは、年に2回ほど集まりお酒を飲みながら歓談しています。大学は、基礎学問を学ぶと同時に今後の人生で重要となる友達・仲間をつくる場所だと思います。次の100年も、未来永劫しっかりした人材を理工学部から世の中へ出していけるように期待しています。

麻生 直木

麻生 直木

株式会社竹中工務店 木造木質建築推進本部 部長

建築学科|1983年卒業

大学入学初年度の講義で、まず、思い出されるのは斎藤公男先生の構造力学の講義である。求められる空間が、どのように考えられ実現されてきたかを紹介いただき、架構の美しさから構造デザインに魅力を感じたことが、その後、構造設計の道に進む原点となった。

2年生になり、斎藤先生が顧問を務める建築構造研究会(以下、構研)に入部した。構研では建築展に向け、ドーム架構や石積みのアーチ架構の模型を、先輩・同級生とともに学校に泊まり込み作り上げた。仲間とともに構造模型を完成させた達成感と喜びで、ものづくり・建築を作り上げる楽しさを知ることができた。紙でドーム建築の模型を完成させ、模型を上から眺めていると、斎藤先生から「見る目線が違う、実際の建物を見るレベルで見るんだ」と頭を“コッン”とされたことが忘れられない。

構造模型は、架構の配置・断面大きさ、全体のバランスを確認することができる手段として有効であることを教えられ、社会人となり実際に構造設計を担当したプロジェクトにおいても、力の流れ・部材断面のバランスの確認や接合ディテールの検討、確認に非常に有効であった。また、建築展や研究段階で製作した模型は、斎藤研究室に長きにわたり飾られており、卒業後、学校を訪れるたびに自身の建築の原点を再確認し、振り返ることができた。

4年生では斎藤公男研究室で、スペースフレーム班に入り、新たなトラスジョインを用いた平板のトラス構造の実験的研究により崩壊メカニズムに関する研究を行った。実験は、習志野校舎の地下で、スペースフレーム班全員1週間泊まり込みで行った。実験用鉄骨を地下に手運びし、実験台の組み立てから始め、部材へのひずみ計の貼り付け、立体トラス架構の組み立てを行い、実験台にセットし加力実験を行った。立体トラス架構の弾塑性挙動を把握することができた。この1週間泊まり込みで、スペースフレーム班の一体感が増し、卒論は、スペースフレーム班メンバーが先生のご指導のもと一丸となり研究を進めたことで、卒業時、桜建賞を頂くことができた。

建築構造研究会、斎藤公男研究室において、ご指導いただいた斎藤先生、黒木先生、岡田先生、中島先生への感謝の言葉を添えて締めたいと思う。

古橋 賢一

古橋 賢一

川崎重工業株式会社 モーターサイクル&エンジンカンパニー企画本部渉外部 部長

機械工学科|1983年卒業 
機械工学専攻|1985年修了

私は高校生の時からオートバイが好きで16歳の誕生日に原付免許を取得し、いとこから頂いた50ccに乗っていました。当時「モトライダー」という雑誌に毎月、ニューモデルの操縦安定性の試験(定常円旋回やスラロームなど)結果が掲載されており、ステア特性のデータ(操舵角・トルク、車体3軸の角速度、車速、軌跡など)が掲載されていたと思います。オートバイのハンドリングを定量的に評価していることに興味を持ち、雑誌には協力「日本大学理工学部機械工学科傳研究室」と書かれており、大学でこういう研究してみたいなと思い始めるきっかけになりました。

入学試験時に志望理由を記入する欄があり、「傳研究室で、オートバイの研究を行いたいため」と書いた記憶が有ります。面接官に「フさんのところに興味があるのか」と言われ、それまではデンだと思っていたので、初めて、フと読むのかと判った次第です。

昭和54年機械工学科に入学し、1年間は川崎の自宅から習志野まで、毎日250ccのオートバイで通いました。当然一般道で、片道60kmあり、オドメータは1年で20,000kmを軽く越えてしまいました。

4回生になり傳研究室に所属してからは、ほぼ毎月外注の実験があり、習志野の滑走路(交通総合試験路)に通いました。またオートバイのハンドリング特性は、人と車両の重量比率からライダーの運転姿勢(リーンイン、リーンウィズ、リーンアウト)による影響が大きく、ライダーの姿勢角を測れないか? ということになり、秋葉原で可変抵抗器や、アルミの材料を買ってきてライダーの背中腰辺りに回転中心を定め、車体に対する上体の相対角度を計測する装置を製作したりしました。この「無いものは作る」という精神は会社に入ってかららも大いに有効でした。

おりしも時代はオートバイブームの真っ只中で、昭和57年には国内の新車オートバイ販売が334万台のピークを迎え、オートバイの交通事故も増加し、交通安全の番組や事故の検証実験などを行うこともありました。こうなると、修士論文の実験などは後回しになり、外注実験とデータ整理の休み無し状態が続きました。会社に入ってから忙しい時があっても、あの時を思えばマシや! と思える程でした。ということで、学生時代の「何でこんな事までするの?」といった苦労は、社会人になってからの苦労を乗り越えるイイ練習台だったんだなーと今は思います。

種山 雅夫

種山 雅夫

公益財団法人航空科学博物館 展示部長・主任学芸員

航空宇宙工学科|1983年卒業 
航空宇宙工学専攻|1985年修了

昭和54年4月に航空宇宙工学科に入学し、おかげさまで習志野校舎に合計8年間通うこととなった。4年間は学部生として、2年間は修士課程に在学し授業は駿河台校舎に通ったものの研究室は3号館3階にあり、その後1年間は日大から離れたものの、2年間は副手として勤めさせてもらった。

学部生の3年間は、履修した全ての科目の授業をほぼ全て受講し(なんといっても授業料が……)、残念ながら電気工学の1科目だけは不可の成績であったが、無事卒業研究に着手することが出来た。

部活動としては、理工学部公式の硬式テニス部に3年まで在籍し、平日3日、土日も練習試合など忙しかったが充実していた。

アルバイトも、塾講師と家庭教師を務めており、結構生活(模型購入等)には不自由しなかった。

卒業研究の研究室を決める際に、テニス部で航空の同級生から、河村龍馬教授という流体力学の権威がいらっしゃるからと誘われ、研究テーマも共に過ごすこととなった。自分はどちらかというと列車などに興味があったので、単なる空気力学でもと漠然と考えていたのであるが、河村先生の専門は高速空気力学で分野が違っていた。今でも目に浮かぶのであるが、前出の友人と河村先生の研究室を訪問し、お話を伺った際に、渋谷のスクランブル交差点の流れは高速空気と同じなんだといわれて、その人柄と明晰な頭脳にイチコロとなってしまった。結局、学部の1年間、修士の2年間、副手の2年間の合計5年間も河村先生の庇護のもとで過ごすこととなってしまった。

学部卒業の際は、鉄道研究所への就職を考えていたのであるが、当時はクチが無く、修士卒業の際にはすでに日本における航空博物館で働きたいと考えていたもののやはりそのクチは無く、副手時代に博物館の学芸員の資格を聴講生で取得する際にも航空宇宙工学科の皆さんにご理解いただきどうにか今の航空科学博物館で学芸員をしている。

本題が数行となってしまったが、学部生1年の夏休みに航空宇宙工学科主催の「世界の航空博物館見学 研修ツアー」に、航空1期生で元教室主任の村松旦典教授と共に参加し、自分の生きる道はこれだと考えたということは、日本大学理工学部航空宇宙工学科のおかげかなといえる。

少し長くなってしまったが、これでお開きとしたい。

伊東 靖

伊東 靖

パシフィックコンサルタンツ株式会社 事業強化推進部 技術統括部長

土木工学科|1984年卒業

学生生活で印象的な出来事

習志野校舎・二子多摩川での測量実習は熱く、自動二輪倶楽部連盟(サークル)での活動は思い出に残っています。坪井町の友人との関わりは今でも懐かしく良い思い出です。土木工学演習のプレートガーターの模型は、非常に印象に残る授業で、今職業の橋梁工学の礎となっています。

印象的な授業や先生、同級生など

教授の卒業設計にて、PCポストテンション橋の設計を行い、今の橋梁設計の基礎を学びました。粟津清蔵教授の水理学を落として、失意のどん底に……。同期の友人とは、その後の交流もあり、役所、ゼネコン、設計会社など後に社会で出会うことが多々あり、今でも連絡が取れています。「石ころ蹴ればなんとやら」ですね。

大学での学びや経験がその後の人生や仕事につながっている事

学生のころから橋梁に興味を抱き、その時の思いを今に繫げています。設計演習や測量学、模型作り、製図演習が大いに役に立っています。現在は、各委員会などでお仕事を一緒させていただいている日大の先生方と繫がりも私にとって人生の分岐点、結節点になっており、大変感謝の気持ちが大きいです。

関文夫教授や天野光一教授との出会い

先生たちとは、景観デザイン研究会の繫がりで知り合うことになるのですが、当時関教授は大成建設にお勤めであり2011年に教授になるのですが、先生との協業で以下の受賞ができ、私の仕事に大いに関わり合いを持っています。

2017年1月 土木学会デザイン賞2016年度最優秀賞「白糸ノ滝滝つぼ周辺環境整備」

2015年6月 日本コンクリート工学協会2014年度作品賞「滝見橋」

2014年11月 日本産業デザイン振興会グッドデザイン賞施設部門「滝見橋」

今でも橋梁デザインの話になると飲みながら熱くなれる方々です。

2008年に建築学部の特別授業にて、ドイツのマイク・シュライヒ先生が来日されたときは、斎藤公男先生(日本大学名誉教授、日本建築学会元会長)や空間構造デザイン研究室の岡田章先生・宮里直也先生と繫がり、実際のお仕事やデザインに影響を受けました。

実際のお仕事では、新潟のデッキデザインで、建築家の梅沢良三先生(日大出身の構造家)と構造の議論ができたこと、八海山の寮で、斎藤先生や梅沢先生とスキーしたことが今でも良い思い出です。

秋江 康弘

秋江 康弘

清水建設株式会社 プロポーザル本部都市開発計画室 グループ長

海洋建築工学科|1985年卒業 
海洋建築工学専攻|1987年修了

中学生の頃から建築をやりたいと思っていて、海が好きだったこともあり、3期生として海洋建築工学科へ入学しました。日本大学は、建築系では東大、早稲田に次ぐ3番目に古い歴史をもつ学校として、学内でもひときわ誇り高き集団だったように記憶しています。歴史ある小林美夫先生(名誉教授)の研究室でデザインを学べたのは幸せなことです。一方、海洋工学系の佐久田昌昭先生(名誉教授)はマサチューセッツ工科大学Ph. D.という経歴もあって、外に目を向けることの大切さを教わったことが印象に残っています。私が2度留学できたのも、その影響が大きいと思います。

留学では、ウォーターフロントのデザインを中心に、建築と都市の境を行き来していました。大学院時代に交換留学で籍を置いたイリノイ大学大学院と、日本大学の小林美夫先生の研究室の合わせて2年間かけたシカゴのウォーターフロント計画に関する修士設計が思い出深いです。現地で、バーナム(アメリカの建築家:ダニエル・バーナム)によるシカゴ・ウォーターフロントデザインの歴史を学び、当時のシカゴが抱える問題でもあった、ネービーピアとダウンタウンとの分断、その解消のためのオグデンスリップ(停船用水路)エリアの開発についての計画提案をテーマとしました。実際にシカゴ市とも接触しながら研究を進めたことは、大変勉強になり自信もつきました。

海洋建築工学科は、「建築という領域」から踏み出して、「建築/都市/土木/自然の領域」を行き来することができる学科だと思います。海洋建築はこの4つが重なり合うところが面白いし、私が実務で携わっている都市開発も、まさにそうした領域です。学生には、さまざまな分野に興味を広げて、「領域を超える姿勢」を身に付けてほしいと思います。大学での生活は、人生のなかで短い時間ですが、その後の将来を左右するとても重要な時期でもあります。しかし所詮は、社会へ出る前の出発点です。今後の人生を切り開くためには、外に目を向けて、あらゆる可能性にチャレンジしていってください。他の学部の学生と交流することも、大きな広がりにつながるはずです。本学ほどそうしたチャンスが豊富な環境はないと思います。短い学生生活を悔いなく過ごしてほしいです。

木村 陽

木村 陽

株式会社電通国際情報サービス 監査室長

電気工学科|1985年卒業

理工学部創設100周年、誠におめでとうございます。このような晴れがましい時に執筆の機会を賜り、恐縮でございます。僭越ながら大学時代の思い出を書かせていただきます。

昭和56年、高校を卒業し憧れの大学生となりました。しかし、1年生の時は家庭の事情もあり、習志野校舎(現 船橋キャンパス)に片道3時間弱かけて通う生活となりました。習志野校舎周辺は今と違い、とても田舎でした。その頃、丁度、横須賀線と総武線が相互乗り入れとなったので神奈川が自宅であった小職には非常に助かりました。しかし1日の1/4が電車の中でつぶれ、講義時間、食事、睡眠時間だけでその日が暮れていきました。思い描いた大学生活と随分ギャップがありました。

「2年から御茶ノ水、但し必要な単位を取れれば」という話を聞き、愕然としました。それからは憧れの「御茶ノ水」を目指し、電車乗車中は学習の時間となりました。厚い教本を開いている姿はどのように周りに映っていたのでしょうか。無事、2年生を御茶ノ水で過ごせることとなり、ほっとしました。

都会そして大学が並ぶ地域での憧れの生活が始まりました。しかし、その楽しさも束の間、あっという間に4年生となりました。もうすぐ就職です。電力工学研究室(宮城研)にて卒業研究をすることを許され、「光ファイバーによる太陽光エネルギーの伝送」という研究テーマが与えられました。晴れた日には太陽光をレンズで集めファイバーに通し、エネルギー伝送の数値を計測し、どのようにすれば効率的にエネルギー伝送ができるか考えるといった具合でした。現在の採光システムが具現化されたソリューションの1つかと思います。研究室内では燃料電池や潮流発電の研究がなされていましたが、今思えば、現在を支えるような色々な取り組みを先生方はされていたことがわかり、素晴らしいところで勉強させていただいたことに感謝しております。

就職は電力やエネルギーとは全く違った情報システムの世界に進むこととなりました。小職の周囲の光ファイバーでは情報が伝送されていますが、情報こそ、現代社会のエネルギーの源なのではと思っております。

石井 雄一郎

石井 雄一郎

株式会社富士通九州システムズ 代表取締役社長

電子工学科|1985年卒業 
電子工学専攻|1987年修了

理工学部100周年を心よりお祝い申し上げます。私は、昭和56年に電子工学科、昭和60年に大学院博士前期課程(電子工学専攻)に入学しました。倉橋裕先生が指導教官であった倉橋研究室で卒業および修了研究をしました。

私の学生時代は、理工学部生としては「いかがなものか」という生活でした。午前中の授業と実験には出席しましたが、午後はアルバイトに行く日々でした。そのような学生生活の中でも、4年生の時には毎日午前中から研究室に顔を出し研究をするようになりました。午前中は一人で研究室にいることが多く、実験を黙々としていました。研究のテーマは、「超音波パルスドップラ法による血流速度計測」でした。親身に指導をしてくださった倉橋先生、優しくまた的確なアドバイスをくださった研究室の先輩方に恵まれ、充実した卒業研究をすることができました。電気回路の設計/組立、そしてデータ表示するためのプログラム開発を見よう見まねでしていたのが思い出されます。

また倉橋先生のご配慮により、4年生の春休みに電電公社(現 NTT)横須賀通信研究所に画像技術(CG)開発の研修に行かせてもらったことも良い経験になりました。研究所には大学の先輩がおられ、懇切丁寧に指導をしていただきました。大学での研究と横須賀通信研究所での苦労や経験が、会社(富士通株式会社)へ入社したときに大変役立ちました。先生、先輩方に感謝、感謝でした。

研究室でのもう一つの思い出は、研究室の事務補助をしてくださっていた潮田さんとの会話です。自分の親のことや潮田さんの息子さん(当時、高校生)のことについて話をし、アドバイスをしあっていました。その会話があったため親がどのような気持ちでいるかを知ることができ、親に対する態度や会話を改めたのを覚えております。

先日、卒業してから初めて習志野校舎を訪問しました。思い出の4号館は変わっていませんでしたが、新しい校舎や大学に隣接した駅が出来るなどキャンパスが変貌していたのには驚きました。そして仲間と夜な夜な飲みながら語らい人生勉強をした北習志野の焼き鳥屋(関の家)が閉店になっていたのには一抹の寂しさを感じたとともに、自分も年をとったなと改めて思いました。

最後になりましたが、100周年を迎えた理工学部が、これからも学生に寄り添い、優秀な人材を輩出する学部であることを祈念いたします。

佐藤 良明

佐藤 良明

NTTエレクトロニクス株式会社 代表取締役社長

電子工学科|1985年卒業 
電子工学専攻|1987年修了

大学を卒業後、32年が経過しました。それでも、大学で過ごした記憶は少しも色あせることなく、私の頭に残っています。その素晴らしい思い出は、会社に入り、より洗練されて私自身を形成する根幹となりました。今回、このことをエピソードとして皆様にお伝えしようと思います。

大学は何を体得する場所なのか。当時の私には、あまり明確ではありませんでした。皆様がご存知のように、大学では、小中高のように先生に教えていただくことを理解するのではなく、輪講、ゼミ、卒業研究など学生自身が主体的に行うプロセスを経験します。特に、卒業研究は研究室の先輩や指導教授と相談しながら、進めるわけですが、1年後に答えの出る保証はありません。私は、機能性のある薄膜の研究をしていましたが、思ったようなデータが得られず、毎晩遅くまで真空装置を操作していたことを覚えています。当時は、夢中で実験し、なんとか卒論をまとめあげて卒業しました。

その後、修士課程を経てNTTに入り、私は、光ファイバ通信の装置を商用導入する仕事に携わりました。当然、だれもやったことが無い仕事であり、決まった時期までに成功させねばならない状況でした。このとき、これは大学の卒論や修論と同じだと気が付きました。小中高は、既に答えのある問題を解くのですが、大学では、今までにない問題を自分で設定して解くことを学びます。会社の仕事は、今までできなかった売上を目標にする、今までにない製品を実現するなど答えのないことへの挑戦です。答えはわかっていないけど、やるべきことを自分で設定して挑戦することの基本は、大学で体得したのだと思っています。

今では、会社に入ってくる新人に、皆さんには難しい仕事をやり切る能力がありますよと話すようになりました。社会人としての根幹を作って頂いた、大学関係者の皆様、ありがとうございました。

田邊 賢一

田邊 賢一

株式会社NTTデータビジネスシステムズ ITソリューション事業部 営業部 GM

数学科|1985年卒業

日本大学理工学部創設100周年おめでとうございます。卒業して35年、今般、執筆の機会を頂き御礼申し上げます。在学中から現在までを少し振り返ってみたいと思います。

私は日本大学高等学校から、昭和56年に理工学部数学科に入学しました。同級生は175名、創設から23年目の数学科の歴史の中で今でも一番多くの学生が在籍していた時代であり、世の中にはパソコンが普及し始めていました。

印象に残っている授業は永坂秀子先生の数値解析です。私は答えが1つであることから数学が好きになり、数学科に進みましたが「コンピュータ内部で数値は2進数で表現されているため、仮数部の桁数(ビット数)で表現できない下位の部分は、規定されたルールに従って丸められ誤差が出る」というのはショッキングでした。例えばExcel等の表計算ソフトでセルに小数点以下の数値を入力すると、「行と列の合計値が合わない」といった現象です。永坂先生は退職された後も数学科の周年行事に欠かさず出席され、昨年の数学科創設60周年には相変わらずエネルギーに溢れたお姿を示してくださり、今でも我々に元気を与えてくれます。

学生生活の思い出は新歓コンパから卒業式まで沢山ありますが、何といっても4年間在籍した硬式テニス部です。当時は第二次テニスブーム、100名近い新入部員が集まりましたが練習ではボールを打つ時間はわずかで球拾いばかり。一人、二人と部を去り、最終的には30名位になりました。厳しい練習に耐えた夏合宿が今でも記憶にあります。

卒業後はメーカー系のソフト開発会社に就職、5年目にはシステムテストのプロジェクトリーダーに初めて任命され、予定通りサービス提供できた達成感は成長を感じる始まりでした。その後、地元横浜の銀行系システム会社に転じ、勘定系・情報系システムのプロジェクトリーダー等を担当しました。現在はNTTデータグループに転籍、バックオフィスのマネージャーを務めています。決して順風満帆の人生ではありませんでしたが、大学時代に培った「若きエンジニア」の精神があったからこそ乗り越えられたと思います。

現在は理工学部校友会の常任幹事として、学生と卒業生をサポートしております。時代は平成から令和へ、社会や経済が大きく変化して若い人たちが先輩と同じ道をたどり難くなっていますが、そうした若い世代を含め約23万人の卒業生が「日本大学理工学部を卒業してよかった」と思えるように支援していきたいと思っています。

立岡 寛之

立岡 寛之

三菱航空機株式会社 執行役員・プロジェクト推進本部長

航空宇宙工学科|1986年卒業 
航空宇宙工学専攻|1988年修了

学生生活で印象的な出来事は何かと聞かれ、学生時代を振り返ると、一番印象的な出来事は、4回生の時に出場した全日本グライダー学生選手権で個人優勝した事です。私の学生生活は、クラブ活動抜きでは語れません。私は、大学入学前からパイロットになってみたいという思いを頭の片隅に持っていました。そして、入学後、クラブ勧誘でグライダー部を見つけ、グライダー部の紹介で「飛べるエンジニアを育てる」という明確なビジョンを持つ部である事を知り、入部を決めました。もちろん、学生の本業である学業を疎かにする事はありませんでしたが、グライダーを操縦する楽しさにのめり込みました。

今考えるとクラブ運営は会社運営によく似ています。クラブの大方針は安全第一。クラブ創設以来人身事故0でした。また、自家用ライセンスを取得し、学生選手権に出場する事が目標でした。訓練は1–2週間の合宿を年4、5回行い操縦技量を上げました。合宿では3回生が実質クラブ運営をし、2回生が1回生に指示を出し、安全にかつ効率よく訓練を行いました。常に、飛行回数を増やす為にどうすれば良いかを皆で考えました。クラブの教官は全てがOBで、親身に教えてくださいました。

私は2回生の夏合宿で初めて一人で飛べるようになりました。その時の飛行時間はたった6分程でしたが、無事に着陸した時の感動は今でも忘れられません。その後、何回か複座機に一人で乗り訓練した後、3回生になって教官から単座機での飛行が許可されました。単座機(K-8C)で飛行して、複座機との違いに驚愕しました。K-8Cは初等練習機ですので操縦性が良く、自分の思い通り機体を動かす事ができました。そして、何よりも静かでした。性能(飛行速度)は競技機ほど良くはありませんでしたが、この機体が私の愛機となりました。

私は4回生で自家用操縦士のライセンスを取得し、K-8Cと共に全日本学生選手権に出場しました。他の大学が競技機で出場する中、初等練習機での出場でしたので、まさか私が優勝するなど、皆夢にも思っていなかったと思います。優勝できた要因は大会期間中、気象条件が良くなく皆高度がとれなかった事。また、私が機体に完熟していた事だと思います。機体の特徴を活かし気象条件に関係なく得点を獲得できた事が勝因だと思います。競技機より性能の劣った機体で優勝できた事は、4年間クラブ活動をやってきた集大成であり、本当に印象深い出来事でした。この結果が出せたのもOBの日頃のご指導はもとより、一緒にクラブ活動に励んだ同期、後輩のお陰だったと今でも思っています。

卒業後は、航空機メーカーに就職し、いろいろな航空機の開発作業に製造部門の一員として携わってきました。現在は、国産ジェット旅客機の開発にプログラム管理という立場で従事しています。学生時代にクラブ活動を通して学んだ、安全第一、リスク管理、スケジュール管理や報・連・相などは、プログラム管理の基本であり、本当に会社に入ってから役立ちました。私にとって大学でのクラブ活動は、私の人生を大きく左右する出来事の一つであり、関係者の皆さんに深く感謝いたします。ありがとうございました。

村上 朱美

村上 朱美

株式会社アックラン 代表取締役

電気工学科|1986年卒業

理工学部創設100周年おめでとうございます。

私が卒業してはや30年が経ちました。在学中に学んだことが、今生かされているかどうかは疑問ですが、少なくとも大学生活をエンジョイできたことが、私のその後の人生に、何かしら影響を与えてくれたことは、事実です。何よりも学ぶ・研究に専念する大切さ、人脈が大事であることを実感できました。

在学時、私の卒研テーマは「燃料電池」でした。当時は通産省のムーンライト計画で本格的に燃料電池の開発が開始された頃。私は宮城弘教授のご指導の下、熱効率などの解析を主に行っていました。後、燃料電池は小型化され自動車に搭載されるまでに至っています。卒研でコンピューターを使って解析していたことは、私の原点かもしれません。

卒業後は、日本電気へ入社し、海外向け伝送通信機器の設計開発に従事しておりました。担当であった組込ソフトウェアのデバッグ時には、電気工学実験で経験したハンダ付けやオシロスコープの扱いはとても役立ち、自分が携わったものが製品になる喜びを知りました。

出産退職後は、コンピューターの普及とともに、一生涯働いていたいと考え、システム開発会社を経て、起業を決意し、今に至っています。女性のさらなる社会進出、働くことの楽しさを、少しでも私自ら率先できればと考え、ソフトウェア開発会社を立ち上げました。起業は、多少の不安はあったものの、大学の同級生、日本電気の同期入社仲間、社会復帰後お世話になった外注先の方々と人脈に恵まれ、お陰様で、案件のご依頼をいただいております。

さらに、電力工学研究室のOBによる「弘樹会」では、先輩方や同級生と情報交換など、卒業後も交流を深めており、これら人脈は、まさに私の宝物といっても過言ではありません。こうした、人脈やネットワークの大切さは、ある意味、大学生活で学んだことなのかもしれません。まだまだ未熟ですが、一生涯勉強するつもりで、これからも自然体で生きていきたいです。

最後になりますが、日本大学理工学部ご関係者の皆様に感謝の気持ちを表します。

ありがとうございました。

市原 英樹

市原 英樹

大成建設株式会社 生産技術推進部 部長

工業化学科|1986年卒業

大学で学ぶべき事は何であったのか? 今であればよくわかる。社会に出て働くことで、学生時代にやっておくべきことはよく見える。しかし、学生だからこそできること、社会に出る前の学生だからこそ「できる事」をやらなくてはならない。といった考えは今でも変わりがない。

私の学生生活は、「日本大学理工系ヨット部」に没頭した4年間と言ってもおかしくない。この学生生活の経験は、卒業後の私の考え方・生き方に大きな影響を及ぼしている。そして、工業化学科(現 物質応用化学科)に入学したことで、自分の仕事に対する方向性に大きく影響している。この二つの融合が私の人生における進むべき線路を引いたと私は確信している。

後に、私は企業の研究員として「研究・開発」を30年間近く行ってきた。この職を選択したのも大学4年生になり研究室で行った卒業研究を通して、細かいデータの収集を行い、分析をするということが自分に合っていることに気づいたからである。

そして、私が最も影響を受けた授業が、国文学の井上先生の授業である。授業は必修科目ではなかったが、毎週きちんと出席していたことが印象に残っている。先生は、毎回授業の冒頭、私たち学生に近況報告をスピーチさせるのが授業のスタイルであった。受講している生徒数が少なかったことがこのようなスタイルを取った要因かもしれない。その中でプレゼンテーション能力の重要性を自然と学んだことを記憶している。自分が経験した楽しかったこと、とんでもないことを説明している中で、先生から「表現力が豊かになったね」と言われ、相手に伝える楽しさを気づかされたことを今でも覚えている。

大学の授業で学ぶことは、社会に出るための最低限の知識とよく言われる。しかし、本当に学ぶことは、「興味があることを探求する」「失敗をおそれない」「よく考える」「自分を信じる」などのことに気づき、他人の評論・評価で決めるのではなく、自分自身の評価で判断する考える力を色々な経験・出会いで学ぶ「気づき」ではないであろうか。

最後に、私はヨットで外洋を航海する上で、命を預けることができる仲間と出会い、会社で誰もやらないことを実現する仲間と出会い、いつでも安心できる空間を提供してくれる家族、そういった人と人の結びつき・出会いが自分に喜びと楽しみといった反応型のエネルギーを生んでいる。これからも新たな出会いが楽しみである。

大渕 一央

大渕 一央

富士通株式会社 知財R&D推進統括部 統括部長

電子工学科|1987年卒業 
電子工学専攻|1989年修了

研究室の関根先生は大変だっただろうなと思う。言うことを聞かず、理解すらしようともしない学生相手に指導し続けていたのだから。他人事のように振り返りながらも、今では恩師、関根先生には心から感謝している。僕たちの何十年後かのために、自分で考え、自分から行動できる人間に育ててくれた。

僕は当時、日大理工で普通の学生だった。授業は出席しても聞いているのかいないような、テスト前は過去問を揃えて一夜漬け。でも、表面だけ取り繕うのはうまく、成績は悪くなかったので大学院へ進んだ。ある日、僕は授業に出席するために家を出たが、御茶ノ水駅前のイベントに参加し、パイナップルをもらった。遅刻した僕に先生は怒らず、ニコニコしながら、はじめないで待っていたよと言った。なんて厭味ったらしい言い方だといまだに覚えている。研究室でも、研究方針決定、学会発表や入社面接練習など、答えは言わずにニコニコしながらどうするの? どうしたいの? と厭味ったらしく指導してくれた。

富士通へ入社して20年後、僕が学生だった頃の先生の年齢になった。何年振りかで出席した研究室OB会で先生は、富士通の入社希望者は彼、去年入ったのは彼、と紹介してくれる。あちこちのテーブルを回り、同じことをしている。みなのことをよく覚えていて、気遣っている。僕が学生の頃もそうだった。仲間たちも言う、先生は凄かったと。それなのに当時の僕たちは、鬱陶しがっていた。やっと、感謝してもしきれないことに気づきはじめた。そういえば先生は、その場でわかってもらうよりも、後になってそういうことか! と思わせるのが良いんだ、と言っていた。

卒業して30年経ち、僕は富士通グループのR&D部門の知財を統括している。役職定年が見えてきた今になって、組織や人を成長させるためには、指示ばかりではダメだと気がついた。自分で考え、自分から行動させないといけない。決して怒らず、どうするの? どうしたいの? と、ニコニコしながら彼らに辛抱強く問い続けている。関根先生と同じくらい今の僕は大変だ。でも、これが組織と彼らの成長のために最良の方法だと知っているし、彼らが成長した後にはわかってもらえると思うと楽しみでもある。

北小路 結花

北小路 結花

ジャパンマリンユナイテッド株式会社 エンジ・ライフサイクル事業本部
エンジニアリングビジネス部海洋グループ 主査

海洋建築工学科|1989年卒業 
海洋建築工学専攻|1991年修了

海洋建築と出会ったのは、佐久田昌昭先生(名誉教授)とお会いする機会があって、海洋建築は海という大きな空間を使うものだ、という興味深いお話をうかがったことがきっかけです。未知なる世界を切り拓くというスケールに、当時19歳だった少女の私が心惹かれました。大学院生のときは増田光一教授の下で「波と流れの共存場における流体力」の研究に熱中しました。また、コンピュータによる数値計算と、その数値データを水槽実験で確認していくという技術開発や設計の進め方を、学生時代に身に付けておいて本当に良かったと思っています。その時の経験は今でもとても役に立っています。

経済産業省や海上技術安全研究所などが、各社の担当者を集めて会議をする機会があると、大学時代の研究室の先輩たちとよく一緒になります。各機関の意思決定をするような立場に近い方たちですから、先輩が登場されるともう、私なんて使い走りも同然です。先輩・後輩という関係がありつつ、世の中が必要としているものが自分たちの力でつくれるところまできたのだ、という気がしています。

私は造船会社に就職して、学生時代に夢見ていた仕事がすぐにできたわけではありません。あちらこちらの部署を渡り歩き、また、地道な基礎研究に熱中する一方でふと、イージス艦の設計をしている友達をうらやましいと思ったりもしました。採用・教育の難しい仕事のストレスで、腸にポリープができたときは、もうダメだと思いながらも、歯を食いしばって頑張ってきました。それなりに遠回りをしてキャリアを積んだからこそ、今の仕事に携われているのだと思います。働くことは、時には厳しいことがあります。でも、出会った仕事のなかで自分の役割を見つけ、楽しめる才能があれば、何をやっても天職になるし、働くこと自体が楽しくなると思うのです。かけがえのない学生時代、講義も研究も楽しむ、そんな姿勢を身に付けるよう、頑張ってほしいです。

広崎 朋史

広崎 朋史

宇宙システム開発株式会社 代表取締役

航空宇宙工学科|1989年卒業 
航空宇宙工学専攻|1991年修了

今でも宇宙戦艦ヤマトの大ファンである私は卒業研究を決めるに当たり、より遠い宇宙に行くための技術を研究するテーマを求めて、嶋田研究室で募集された深宇宙探査に関する研究を選んだ。何と、この年に初めて設けられた研究テーマで、しかも定員1名であった(他のテーマは3名)。輪講は週1回行われ、各テーマ毎週成果を発表するのであるが、他のテーマは3人交代で発表できるものの、私だけ毎週発表させられ、かなりハードな研究生活であった。それまで私は人前で話すのが苦手であったが、この輪講での毎週発表のおかげで徐々に度胸が付き、人前で話すことが苦にならないところまで鍛えていただいた。学術面では深宇宙探査機の知能化のための技術として、当時最先端のニューラルネットワーク技術の導入を先生から勧められ、半信半疑で猛勉強した。当時の計算機能力ではなかなか良い結果が得られなかったが、30年経った現在、この技術がAIブームを牽引しているディープラーニングの基盤となっており、現在の仕事でも活躍していることを考えると、先生の先見の明には脱帽である。

修士修了後は宇宙とソフトウェアに関する仕事がしたいとの思いから富士通に入社し、衛星地上システムの開発に従事していたが、人が宇宙に住むための技術を勉強したいとの思いが強くなり、運よく社内の社会人大学院留学制度に入社8年目で選抜され、母校に戻って宇宙居住の研究を行っている石川先生の下で研究を行う機会を得た。ここで共同研究を実施していた閉鎖生態系の研究所の方々と知り合い、この分野を発展させたいとの強い思いから、現在の会社を2005年に起業した。

起業後、営業活動として様々な企業・研究機関を訪問したが、そこには必ず航空宇宙工学科や、その前身の機械工学科航空専修コースの卒業生の方が居り、これらの人脈のおかげで仕事をいただいたり、キーマンの紹介を受けたりして、会社発展に大きく貢献した。この学科を卒業出来たことは人生の貴重な財産だと今は強く思っている。卒業生や母校の方々にも是非これらの人脈を最大限活用していただくために、飛翔会の活動等でこのような交流の場を提供できるように努めて、少しでも学科に恩返しできればと考えている。

難波 健太郎

難波 健太郎

株式会社IHI 部長

機械工学科|1990年卒業

1990年3月に卒業してから、早いもので30年の歳月が流れました。目を閉じると、「北習志野」「御茶ノ水」の駅からそれぞれのキャンパスまでの道、校舎/教室の風景、先生・仲間の顔が今でも鮮明に思い起こされます。但し、勉強に関しては、お恥ずかしながら決して熱心ではなかったので「我武者羅に勉強した」との記憶は一切なく、「実験レポート」と「製図」に追いまくられた、との卒業生の誰もが持っておられるだろう記憶のみが強く残っています。

「製図」は「手書き」が当たり前の時代であったため、鉛筆の粉で手は真っ黒になり、何度も書き直しをして製図用紙が破れ、手の湿気で製図用紙が皺になり、と悪戦苦闘しながら「設計製図Ⅰ/Ⅱ/Ⅲ」を履修しました(但し、設計製図Ⅲは途中で挫折)。デジタル化が進み図面がCADで書かれる現在、「手書き図面」の“意味”及び“大切さ”が忘れ去られた感があります。構想(=ポンチ絵)を練り、論理(=製作手順)立てて筋道(=図面レイアウト)を考え、容易に変えることの出来ない図面に結果をどのように表現(=製図)しなければならないのか、「手書き図面」であったからこそ得ることができた財産(設計プロセス)であり、卒業研究はもちろんのこと、このことがエンジニアとしての私の仕事に大きな影響をもたらしたと言っても過言ではありません。

そして、何と言っても学生時代の最大の宝物は「同期の仲間」です。レポートの貸し借りや代返(もう時効ですよね)、学校帰りの飲み会は勿論のこと、長期休みの度にキャンプやスキーなどの旅行に行き昼夜を問わずに遊び(ここで紹介できないことも仲間とやりました)そして飲み交わしたかけがえのない仲間です。たった「4年間」の時間ではありましたが、仲間と出会いそして過ごした時間は「良い思い出」に留まることなく、自分自身の人生に大きな影響を与えるものでした。やはり、諺にあるように「持つべきものは友」です。

各人の目標に向かって様々な会社に就職し、卒業後は離れ離れになってしまいましたが、卒業して30年が経った今でも仲間とはつながっています。

数年前、機械工学科で講演する機会を頂戴しました。その時の学生の“目”は、私の学生時代の仲間の“目”と同じでした。駿河台校舎1号館も新しく建て変わり、時代の推移と共に様々なものが新しくなっていますが、いつの時代も変わらない学生の“目”を見ることができ、自分自身への活力につながったことを記憶しております。時代が変わっても、美しい“目”を持つ学生を排出し続ける理工学部を誇りに感じたことを記憶しております。

理工学部の今後ますますの発展を祈念し、筆を擱くことにします。

野島 秀仁

野島 秀仁

鹿島建設株式会社

建築学科|1991年卒業 
建築学専攻|1993年修了

「すべてのものは縁によって生滅する」という言葉があるが、いま思えば学生時代の様々な出会いにより今があり、そして今を生きるなかでの新たな出会いにつながっている。

大学の建築学科に入る前年の秋の終わり、何気なくテレビのチャンネルを回すなか、NHK市民大学「空間を造る、現代建築への招待」という番組に出合った。東大の鈴木博之先生による近代アールヌーボーの時代から現代の建築への流れを全11回で紹介する番組内容であったが、それまで漠然と建物や街に対して抱いていた興味が、この番組に出合ったことで「建築」という一つの言葉を知り、その背後にあるとてつもなく奥深い世界の一端に触れたことで、大学の建築学科で学ぶ明確な意志が生まれたのを覚えている。

建築学科に入り一般教養とともに各教授の概論授業が始まり、建築史の近江栄先生による最初の授業で建築の歴史、そして建築家という職能について紹介を受けた。今でも覚えているが、先生は授業の最初に「諸君、君たちは建築学科に入ると殆どの人が建築家と呼ばれる建物をデザインする人になると思っているかもしれないが、将来ここにいる人間のたぶん1割もその職種につく人間はいない」というくだりで始まった。漠然と自分は建築をデザインする仕事に就くだろうと思っていただけに、かなりのカウンターパンチで、一体自分はその1割に入るのか、はたまたどんな仕事をする人間になるのか一気に不安になった。先生は一方で建築という世界を取り巻く世界の広さ、様々な専門家、技術者、職人によって建物は造られ、その積み重ねの歴史により今の建築や都市があることを説いてくださった。そして建築家になるには膨大な本を読むこと、いろんな人に出会う事が大切と話され授業を括られた。授業のなかで建築の良書がたくさん置いてある書店として神保町の「南洋堂」が紹介され、その日のうちに行ってみると、前述の鈴木博之先生著の『建築の七つの力』という本があり手に取り、縁のつながりを感じた。その後に設計事務所で出会った日大の大先輩から「学生時代はバイト代の半分は本代に費やしていた」ということを伺い、この後からバイト代をいただいては神保町本屋街へ繰り出し、そして建築旅行に費やす日々が始まった。

昨今のネット上で簡単に情報交換ができる時代であっても、人との出会いから始まる人生のきっかけや心の交換がある以上、これからも可能な限り出会いを大切にしていきたい。

村上 行夫

村上 行夫

JFEスチール株式会社 建材センター建材技術部 部長

建築学科|1991年卒業 
建築学専攻|1993年修了

日本大学理工学部創設100周年おめでとうございます。

100周年という長い歴史を考えると、私などはまだまだ新参者と感じられますが、私が理工学部へ入学したのは昭和62年で、そこから4年間、建築学科で建築学を学ばせて頂きました。建築家になることを目標に建築学科へ入学したのですが、2年生、3年生と専門科目を学ぶうち、建築構造学に興味を持つようになり、4年生の時には鉄骨構造を研究する佐藤研究室へ所属させて頂くことになりました。そこで佐藤稔雄先生、半貫敏夫先生から鉄骨構造を専門的に学ぶうち、建築家になるよりこの分野をより深く勉強してみたいという興味が湧き、当時はバブル期で周りの学友はどんどん就職を決めていく中、かなり迷ったのですが、大学院修士課程へ進むことを決意しました。大学院での2年間、鉄骨構造全般から建築部材の構造特性、鋼材の材料特性まで幅広く学ぶことができ、その頃学んだことは今でも活かされています。当時は研究の一環で数値解析を夜通し行っていたので、泊まり込みも多く、最後は同じ研究室の仲間と合宿状態(というより学校に棲みついていた?)になり、これはこれで楽しかった思い出になっています。

卒業後は鉄鋼会社へ入社し、建築物に用いられる建設用鋼材に関する研究開発を中心に仕事をしています。日頃から仕事をしている中で、本学部卒の先輩方や同級生、後輩たちと出会うことも多く、たとえば東京駅前の超高層ビル建設現場へ技術説明に行くと同級生が現場所長をやっていたり、東南アジアへ技術セミナー講師に行くと日本のゼネコンから現地駐在として来ていた後輩が聴講しに来てくれていたり、企業同士の共同研究を推進中に先方の技術窓口が実は隣の研究室の後輩だったなんてこともあり、思わぬところで沢山の出会いや再会があります。その度に本学部の裾野の広さをとても感じます。また、縁あって、現在も佐藤研究室の流れを継ぐ中島・石鍋研究室と共同研究をさせて頂いており、学生当時は思いもよりませんでしたが、母校と共同研究できることは、なんとも感慨深いものがあります。

近年では、建設業界は舞台が世界へ広がっていることを肌で感じるようになり、本学部で学ぶ後輩諸君には、我が国の産業を自らが支えていく意気込みで、可能な限り多くのことを能動的に学んで欲しいと切に願います。

三澤 信一

三澤 信一

日産自動車株式会社 Nissan第二製品開発部車両・車体計画設計グループ 主管

機械工学科|1991年卒業 
機械工学専攻|1993年修了

日本大学理工学部創設100周年にあたり、心よりお祝い申し上げます。

私は1987年に日本大学理工学部の門をくぐり、機械工学科での学生生活をスタートさせました。このとき、大きな期待とともに、不安を抱いていたことを覚えています。しかしこの不安は、しばらくするとどこかへ吹き飛んでいきました。今、改めて思うことは、この学生時代に出会えた「ひと」が不安を希望に変え、今日の私を作ってくれた、ということです。

機械工学科のカリキュラムおよび先生方は大変厳しく、機械工学実験など、実験は楽しいのですが、数十枚のレポートを作成しなくてはならず、課題に追われる毎日。これらは、自分一人でクリアするにはハードルが高く、友人とお互いの意見や考えをぶつけ合って、乗り越えました。この友人が居たからこそ、学業および学生生活が充実したものになったと実感しています。ともに学び、ともに苦しみ、切磋琢磨し合える友人たちに出会えたことに感謝しています。また、機械設計製図では、その審査日直前の3日間を一睡もせずに図面を仕上げて、課題を提出。このハードな経験があったからこそ、その後に直面した壁を乗り越えられてきたように思います。

それらのステップを経て卒業研究に着手出来ることとなり、卒業論文では長尾弘先生、大学院の修士論文では岡野道治先生にご指導を頂きました。この間、常に自分の心にあった言葉があります。それは、「創造の心」という言葉です。これは、長尾先生の机の横の壁にかけられており、先生からは、今までに無かった価値を創造することへの挑戦を続けなさい、と教わりました。私は今、自動車開発エンジニアとして、この「創造の心」という言葉とともに、未来への挑戦を続けています。今でも、私にとって大切な言葉の一つです。

日本大学理工学部という「場」で学んだ「こと」は非常に多く、その一つひとつが貴重な知識と経験ですが、機械工学科で出会うことの出来た「ひと」が、今の私を支えてくれています。今後も、学問や研究との出会いの「場」としてだけでなく、自分を成長させてくれる「ひと」との出会いがある「場」であって欲しいと願っています。

最後に、日本大学理工学部の100年という輝かしい歴史と伝統を継承しつつ、更なる飛躍と発展を祈念しまして、お祝いの言葉といたします。

森 義篤

森 義篤

福岡県北九州県土整備事務所 道路課長

土木工学科|1993年卒業

理工学部創設100周年おめでとうございます。本学部のますますの御発展を心よりご祈念申し上げます。

卒業論文のテーマは、出身地の福岡県がバス交通の先進地という理由から、バスの研究をするように新谷先生に言われました。ヨーロッパの都市に強い憧れを持っていて、研究テーマは都市計画をやりたいと思っていましたから、バスの研究をするように先生に言われた時にはとても落ち込みました。しかしながら、テーマが出身地に関することだと言われて「嫌です」とは、そのとき言い出せませんでした。

まずは現地調査を行うように指示されて、夏休み期間中に、熊本、長崎、佐賀などの北部九州にある主要なバスターミナルの施設調査と、高速バスの試乗調査を行いました。バスでの長距離移動の経験はありませんでしたが、やってみると非常に新鮮で楽しい調査でした。調査の結果、主要都市のバスターミナルは都市の中心地に立地していることが多く、バスが鉄道に比べて比較的早く目的地に到着することが分かりました。

従前の論文では都市間の移動時間は鉄道駅から鉄道駅までとしていましたが、高速バスなどの普及に伴い、今後は他の交通機関とのアクセス時間を考慮することが重要となってくるのではないかということ。また、目的地については行政施設とするのではなく、経済活動が行われている都市の中心地とすることが現実的であること、などといったことを卒論にまとめました。

あとは卒業を待つばかりだと思っていたときに、土木学会の全国大会が5月に就職先の福岡で開催されるという理由で、土木学会で発表しなさいと先生に言われました。参りました。

学会で発表する教室の座長は京都大学の天野先生でした。論文の中で、都市間移動が鉄道駅を中心としているとした参考文献に天野先生の論文を使わせていただきましたから、質問をされるときには、ドキドキして内容が全く耳に聞こえませんでした。そんな僕を見かねて新谷先生がさらりと天野先生の質問にお答えいただいたことを今でもとてもよく覚えています。

大学を卒業して26年。あの頃のことはとてもいい思い出です。

岩坂 照之

岩坂 照之

前田建設工業株式会社 ICI総合センター インキュベーションセンター長

交通土木工学科|1993年卒業

結論から言えば、課題の解決方法を生み出すこと以上に、課題を見つけることが大事であり難しい。それを熱心に叩き込んでいただいたのが交通の四年間だったと思う。今でこそ「持続的な開発」や「社会課題起点の事業化」などのフレーズが経済紙に飛び交うが、その根幹となる考え方を、約四半世紀前に当時の先生方が実践されていたのだから。

確か1年生ないし2年生の講義で「交通結節点の改良」という課題発見型の宿題が出された。その時、どこの駅や空港をテーマにするか、非常に楽しみながら取り組んだのを覚えている。プレゼン資料の解説図は当然ながら手描きの時代で、一発勝負だと緊張してペンをとったことまで記憶が鮮明だ。それを担当されていたのは故 川口昌宏先生でその作品を大層褒めてくださったのだが、優しい方だったのであるいは、私のモチベーションを高めるべく調子に乗せることが目的だったのかもしれない。

そうしてマンマと調子に乗った私は、ゼミ1で故 三浦裕二先生にお世話になりながら、いくつかのまちづくりコンペに励むこととなる。新たな景観を生み出す際にコンセプトが重要で、それは地域の風土や文化、そして課題に根差すべきだと気づかされた。多くの方が携わることになる土木の景観づくり、利害関係者間におけるコンセプトの共感度合いが、その後の事業のスピードを全く変えることを体感できた一年だった。

その勢いのまま、ゼミ2では伊澤岬先生(現 名誉教授)の下、頼りないデザイン研の1期生となる。建築で鍛えられた伊澤先生のコンセプトメイキングは、すぐ横で説明を受けてもしばしば置いて行かれることに。その残置される原因が自分の見識の狭さに起因する、と気付くのにさほど時間はかからなかった。必ず現場を見て、多くの文献にもあたるクセがようやくこの時形成されたのだから、思えば大した大学4年生であった。

結局、入社後も二つの大学を経験させていただくことになるのだが、交通で下地を造っていただいた、課題を見つけコンセプトを創る、という能力のお陰で何とかこなせたと思っている。そして今、異なる企業が共創により、一つのコンセプトの下、イノベーションを生み出す時代へ。課題発見が得意なウチの学科の時代が来たんじゃないか、とひそかに喜んでいる。

宮﨑 剛

宮﨑 剛

国立研究開発法人海洋研究開発機構 海洋工学センター
海洋戦略技術研究開発部基盤技術研究開発グループ 主任技術研究員

海洋建築工学科|1994年卒業 
海洋建築工学専攻|1999年修了

私が海洋建築工学科に入学した理由は、「海洋」とは何だろう? そんな興味をもったことがきっかけです。増田研究室に入ってからは、水流の数値解析や、掘削船のパイプの動揺シミュレーションなどが面白くて熱中しました。さまざまな事象を解析・検討して、数値結果を設計データへ落とす作業が性に合っていたのだと思います。もっとやりたいという強い思いで博士後期課程修了まで学んできました。ふり返ってみれば私の博士論文は、「津波作用時の浮体式海洋建築物の応答」というものでした。社会に出てからは「船載方式波浪計測システムの開発」「浮体式波力装置【マイティーホエール】の開発」「大深度無人探査機の開発ならびに大深度小型無人探査機の開発」「地球深部探査船【ちきゅう】の大深度掘削技術の開発」「大深度無人探査機の開発」など、さまざまな研究開発に臨み、エンジニアとして幅広い経験を積ませてもらいました。この中で自分の専門領域にとらわれることなく、出会ったプロジェクトで結果を出すべく、全力で取り組んできました。社会に出てからも増田先生や居駒先生、海洋建築工学科の学生の皆さんとは、「空気タービン式波力発電装置の開発」プロジェクトを一緒に進めていただきました。また職場では、私の所属する部署の部長も増田研出身者ですから、海洋の世界は【人の縁】がとても濃いなと感じています。

1人でできる仕事の量や質には限りがありますから、組織ではチームで仕事に臨まなければなりません。そこで大事になってくるのが人とのコミュニケーションです。学生の皆さんには間口を狭めることなく、いろいろな人と出会い、さまざまな付き合い方を体験してほしいと思いますね。そうした出会いが、皆さんの人生や仕事を豊かに導いてくれるはずです。そして学生時代に磨いたコミュニケーションスキルが、将来、プロジェクトを完遂に向けて動かす原動力になると思います。人との貴重な出会いを、これからも大切にしてください。

国立研究開発法人海洋研究開発機構 海洋工学センター

鈴木 良子

鈴木 良子

三菱重工業株式会社 技術戦略推進室 主席

機械工学科|1994年卒業 
機械工学専攻|1996年修了

日本大学理工学部創設100周年を迎えられるとのこと、誠におめでとうございます。

早いもので、大学を卒業してから四半世紀が経ちますが、大学時代の友人、キャンパス、講義、実験、レポートなど、楽しかった記憶しか残っていません。当時の私は、きっと充実した6年間を過ごしていたのだと思います。

現在の私は、エンジニアではありません。まったく違う職種で働いております。しかしながら、日本大学理工学部で学んだ6年間が、今の私の原点となっていると自負しております。

今でも鮮明な記憶として残っている講義があります。人間工学の最初の講義でした。1枚のプリントが配られ、4コマ漫画だけが印刷されていました。そこには何の解説もありません。「人間工学」と題されただけのその漫画は、足の親指の幅を定規で測った主人公が、電気店に扇風機を買いに行き、スイッチボタンの大きさが自分の親指の幅よりも大きいものを選ぶ……という内容でした。日常にありがちな1シーンをコミカルに切り取ったその漫画をみて、「なんとおもしろい学問なのだろう!」と興味のボルテージが上がったことを今でも忘れません。それがきっかけとなり、修士論文では「機械の操作性」について研究、多変量解析を用いて、使いやすさなど人間の「感覚」を数値化できるおもしろさにのめりこんでいきました。

「人間の感情を数値化して、ものづくりに生かしていく」を軸に、私は出版社に就職し長年広告を制作してきました。広告というと、生まれもったセンスや芸術性を求められると思われるかもしれませんが、「ターゲットとなる人に、どんな状況で、何を伝えて、どのような感情を湧き立て、購買意欲につなげるか」緻密に計算されて作られています。「エビデンス(数値)をもとに企画し制作する。ロジカルに制作されたものは必ず高い成果を得られる」ことは、説得力があるとともに、若手に伝承していける技術となりました。

現在の私は、企業の採用担当をしています。若いエンジニア志望の学生に、自社の未来とやりがいを伝えています。どう伝えたら興味を持ってもらえるか……悩んだときはいつも、あの4コマ漫画が思い出されます。

私はエンジニアにはなりませんでしたが、日本大学理工学部で学んだことは、紛れもなく今の私を作り上げ土台となって、働く私を支えてくれています。この大学でいただいた「学びのきっかけ」を後世にもしっかり伝え、これからの日本を支える若いエンジニアの一助になりたいと思っています。

最後となりましたが、日本大学理工学部100周年、誠におめでとうございます。ますますのご発展をお祈りいたします。

松澤 博司

松澤 博司

株式会社デコリア 代表取締役社長

工業化学科|1994年卒業

日本大学理工学部創設100周年にあたり、心からお祝い申し上げます。

早いもので卒業して二十余年が過ぎました。当社には私が入社して以降数年に一人のペースで後輩たちが入社していますが、気付けば最近の新入社員とは親子ほどの年齢差です。

思い返すと日本大学理工学部で過ごした日々は色々と大変なこともありましたが、人に恵まれた時であったと感じています。

大学一年生の冬、父が病に倒れました。一命は取り留めたものの完治は見込まれない状態。母が奔走し授業料を工面してくれたお陰で大学生活を続けることが出来ましたが、大学二年生からは生活費をアルバイトで工面する日々となりました。全ての教科書を買うお金が無い私に、先輩から教科書を貰ってくれた同級生がいました。休みがちな授業のテストに向けて、まとめたノートを作ってくれた同級生がいました。たまには栄養のあるものを食べろと、弁当を作ってきてくれた同級生もいました。当時芽生えた友情は今も変わること無く続いています。

アルバイト中心の生活が影響し四年生にはギリギリの単位数で進級。首の皮一枚つながりましたが卒業研究に必要な時間を考えると卒業単位に必要な授業を受ける時間など無く、困った私は無機工業化学研究室で担当教諭となり学生の兄貴的存在であった小嶋先生に事情を説明しました。小嶋先生は特別に昼間に単位取得のため授業に出席し、夕方からは卒業研究を行うことを認めてくださいました。卒業研究は深夜に及ぶこともありましたが、小嶋先生が終電までお付き合いくださったお陰もあり無事四年間で卒業することが出来ました。今も小嶋先生の研究室を毎年のように訪問することは言うまでもありません。

最近ではご縁あって地元の日本大学OB会にも参加させて頂いております。OB会出席者の皆さんは地域を代表する錚々たる方々ですが新参者の私を大変可愛がってくださいます。今も日本大学を通じた新しい出会いが生まれたことは嬉しい限りです。

最後となりますが、日本大学理工学部がこれからも100年200年と続くことを心よりお祈り申し上げます。そしてそこで学ぶ多くの後輩たちにとっても最良の場所であって欲しいと強く願っております。

高橋 勉

高橋 勉

株式会社NHKテクノロジーズ ファシリティ技術本部情報システムセンター
ネットワーク・セキュリティ運用部 副部長

数学科|1994年卒業

この度は創設100周年おめでとうございます。研究室の恩師、橋口先生からのご依頼を受け、僭越ながら投稿させて頂きます。

私は橋口先生の研究室の最初の卒業生です。研究室のテーマは微分方程式でした(橋口先生の専門は位相幾何学で、その中の力学系という分野が微分方程式と関係が深いそうです)。当時の橋口先生は、我々が卒業する直前の2月から1年間フランスに長期出張されるなどご多忙でしたが、講義や演習では真摯で丁寧にご指導して頂き、大変お世話になりました。卒業してからも何回かお会いしたり年賀状のやり取りをしたりお付き合いさせて頂いております。

入学は平成2年4月です。バブル崩壊がその翌年でしたので、私は就職氷河期世代となります。大学では理工学部の陸上部に入りました。数学科の同級生、月橋君に誘われたからです。体育の授業でウォーミングアップ中たまたま月橋君と隣同士になり、お互い綺麗なフォームでの走りに興味を持ち、声を掛けたところ、二人とも高校での陸上経験者ということで意気投合しました。そのとき既に陸上部に入っていた月橋君から誘われたのが入部したきっかけです。月橋君には下宿先に泊まらせてもらったり、授業のノートを借りたり、大変お世話になりました。彼は大学院修士課程まで進み、現在は専大付属高校で数学教師、陸上部の顧問をしております。今も飲みに行ったり、マラソン大会に一緒に出たり年に何回か会っております。長い付き合いです。

陸上部では長距離専門で走っておりました。しかし、高校、大学と怪我や病気で思った成績を残せず不完全燃焼だったため、今も趣味で走っております。特に40歳半ば過ぎてからは、高校陸上部の先輩方の影響でフルマラソンに力を入れております。一昨年に初のサブスリーを達成し、その後2時間56分までタイムを縮めております。また今年は飛騨高山ウルトラマラソン、富士登山競争にも出場し競技の幅を広げております。今後もベスト目指して様々な大会に出場し、生涯現役ランナーでいたいですね。

私は現在NHKの情報システムやITセキュリティに関連するシステムの構築、運用を担う部署で中間管理職として働いております。常に緊張感を持って仕事に勤しんでいるため、走ることは私にとって人生の活力になっております。現役大学生の皆様も何か無心で打ち込める趣味を持つことをお勧めします。

岡崎 正信

岡崎 正信

岡崎建設株式会社 専務取締役

株式会社オガール 代表取締役

土木工学科|1995年卒業

日本大学理工学部土木工学科入学に際し、岩手から上京する際に父親から言われた事は二つ。一つ目は「4年で卒業しろ」、二つ目は「常識を疑う目を養え」でした。今思えば、大学に進学する大きなメリットは自分に与えられた時間をマネジメントできることだと思います。その意味ではカリキュラムと研究室活動が厳しい理工学部は私にとってとても良い環境でした。土木工学科に入学した私はその後に原田先生の土木材料研究室に入らせていただき、3年生の後半から卒業までは、ほぼ毎日のように研究室に通い実験をしていました。その一方で、父親との約束である「常識を疑う目を養う」ことについては、研究室活動の合間を見て積極的に海外へ旅にでました。その旅先であるボストン美術館で、アメリカの建築家ルイス・カーンの言葉「都市っていうものは、朝に少年が出かけて行って、夜帰ってくる頃には自分が一生かけて取り組む仕事が見つかってくるようなそういうところのことを都市というんだ」に衝撃を受けました。なんのために自分は理工土木に入学したのか。関東大震災前に卒業生を輩出し日本の復興を支えた多くの諸先輩方がいる理工土木。私は、生まれ故郷に恩返しをするために理工土木に入学したということを再認識したのです。そのためには、常識にとらわれない未来を予測する力が必要なんだということを、在学中に気づくことができました。これは、理工土木の規律ある「自由」さと父親の助言のおかげだと思っています。卒業後は、地域振興整備公団(現 都市再生機構)に入り、地方の都市再生業務に従事し、30歳になる時に岩手に帰り他界した父親が創った建設会社を継ぐ一方で地元のまちづくりに奔走しました。その結果、私は、2018年日本建築学会賞業績賞をいただきました。受賞理由に「「真似る官製まちづくり」から「創造する民製まちづくり」を実現した業績は高く評価できる」と記されていました。父親が私に示してくれた「常識を疑う目を養え」と、理工土木で与えられた経験と時間によって、日本を代表する賞をいただけたと思っています。今回、理工学部100周年記念に寄稿できたことは、同窓である父親も大いに喜んでくれていると思います。

尾留川 剛

尾留川 剛

電源開発株式会社 国際営業部技術室 総括マネージャー

土木工学科|1995年卒業

100周年を機に、自身の卒業後を振り返ってみた。

1995年3月に卒業、4月に電源開発株式会社に入社した。「ダムを造りたい」という想いであった。

入社当初は、本店にて水力発電設備のうち水路トンネルや地下発電所(大規模地下空洞)の設計を担当した。何を行うにも構造物のスケールが大きく、驚きの連続だった。

1997年2月に北海道十勝地方の上士幌町に異動した。既設の水力発電設備の維持管理を担当し、設備の重要性を学んだ。初めてダムに直接触れることができた。

1999年2月に青森県大間町に異動し、原子力発電所建設準備工事として、港湾施設の施工監理を担当した。地図に残る仕事となり感慨深い。

2001年7月から神奈川県茅ケ崎市の研究所配属となった。新規プロジェクトや保守管理部門の技術サポートとして土質、コンクリート試験等を行った。研究室で行ってきた計画し仮説を立て実験で証明するという論理的思考が生きたと思う。

2004年12月から日本原子力研究開発機構に出向し、北海道幌延町での勤務となった。高レベル放射性廃棄物の地層処分技術に関する研究機関である。実規模のトンネルで構成される研究地下施設の設計・発注・施工監理を行った。この出向を機に、岩盤を対象とする業務に携わることが多くなった。

出向解除後の2007年7月から本店で国家設備である地下石油備蓄に関する業務をコンサルタントという立場で携わることになり、岩盤水理の知識を深めることができた。

2009年10月からスリランカ勤務となり、水力発電所建設の施工監理にトンネルエンジニアとして従事した。グローバル的視点を養える有益な現場であった。

2011年4月に本店に戻り、素粒子物理学分野の実験施設として計画中の国際リニアコライダープロジェクトのうち、地下施設の設計業務に携わることになった。検討内容説明のために、各国の物理学者が集う国際会議で慣れない英語でプレゼンする機会が多くあった。2017年ノーベル物理学賞を受賞したバリー・バリッシュ博士が同席していたこともある。

これらの経験を経て、2019年6月から国際事業部門に移り、主にアジア諸国を対象に水力発電所のコンサルおよびIPP事業に関わり始めている。スリランカ勤務を経て芽生えた日本の技術を海外に提供し、海外技術者の技術力向上に役立ちたいという想いを発揮できるチャンスと考えているところだ。

「いまやらねばいつできる、わしがやらねばたれがやる」。平櫛田中の名言が研究室に飾ってあったことを思い出している。社会に出てからは、岩盤に関する業務を専門にしながらも、幅広い業務に取り組んできた。大学では、多様な命題に挑戦していく「姿勢」を学んだと考えている。

古竹 孝一

古竹 孝一

いすみ鉄道株式会社 代表取締役社長

公益財団法人風に立つライオン基金 理事長

交通土木工学科|1995年卒業 
交通土木工学専攻|1997年修了

理工学部創設100周年おめでとうございます。諸先輩方の繫げてきた襷の重さを改めて感じ、またその一人として関われますことを誇りに思います。

私は30年前、父親が日大OBであり、実家が高松のタクシー会社という御縁から理工学部交通土木工学科を選択致しました。学生時代は、青春18きっぷで実家に各駅停車で帰ったり、朝まで麻雀や桃太郎電鉄ゲームをしたり、当時としては珍しく後輩とシェアハウスをして楽しく過ごさせて頂きました。交通計画研究室ではタクシー研究をと思っておりましたが、実績が少なかった事もあり、駅前広場の研究を行いました。ゲーム理論を使った研究は感覚的に現在の携わる会社経営にも活かされております。

大学院卒業後、父から突然の帰れコールで家業を継ぎ、紆余曲折はありましたが何とか潰さず、のちに自動車関連企業もいくつか立ち上げることが出来ました。40歳を超えてからは各会社を両代表制にし、早い段階で次世代の地方後継者育成を考えるようになりました。公職としては、交通計画を専攻していたこともあり、高松商工会議所常議員・交通運輸部会副部会長、高松市委託事業〈高松市まちづくり学校〉の委員長もさせて頂きました。さらに学生時代茶道〈江戸千家〉を嗜んでおり、芸術文化活動への参画も行い、一般社団法人樂藝賓を設立し高松琴平電鉄を利用した地域イベントも開催致しました。

そんな公私ともに充実した日々を送っておりました一昨年、子供たちが大学生になるタイミングにいすみ鉄道社長公募があり、運良く40人の中から選んで頂きました。そして車一台に夢と希望を積んで20年ぶりに学生時代叶わなかった関東就職を果たすことが出来ました。鉄道業界の事はあまりわかりませんが同じ学び舎で交通に携わる7,000名以上の先輩後輩をバックに地道な経営に立ち向かっております。私は第3セクターというなかなか経験出来ない世界で地方ローカル鉄道という浪漫あふれる職業に就かせて頂き、地域の心を繫ぐ立場でありたいと思っております。そして地域の問題に目を背けず、公共交通を公共交流という形に変え、チーム千葉、チームいすみ鉄道のために精一杯努力して参りたいと思います。今後とも御指導よろしくお願い致します。

澤樹 征司

澤樹 征司

株式会社建設技術研究所 東京本社環境部 グループリーダー

海洋建築工学科|1995年卒業 
海洋建築工学専攻|2003年修了

縁あって海洋建築工学科に入りましたが、実は高校時代からパイロットになる夢があり、大学では空に関することがしたいと思っていました。当時、日大の航空部・軽飛行機班がアクロバット飛行のできる飛行機を所有していたので、大学と交渉して車でいう車検を取り直していただき、大利根飛行場で飛行訓練をしていました。部活動と2足のワラジで、人力飛行機を作るチームにも所属しました。仲間とは合宿同然の生活をして、午前3時に格納庫へ集まり、明るくなると飛行機を組み立てて飛行実験をしていました。私は飛行機の製作メンバーとして、鳥人間コンテストは2回の優勝を経験しました。当時の仲間とは今でも交流が続き、外洋クルーザーを共同所有して、今は大海原でつるんでいます。学生時代は、生涯の友と出会えたかけがえのない時間でした。

久しぶりに学生時代の写真を見返しましたが、やっぱり夢のような時代だったと思います。操縦席からこちらを見て笑っている写真を発見しましたが、こんなに屈託の無い顔で素直に笑えたのはいつの頃までだったのかもすっかり忘れていました。でも、歳を取って白髪が増えてしまっても、チャレンジングな気持ちは失いたくないと思いました。これからも、体が動くうちはいろいろな事をやっていきたいと思います。

大学では講義だけでなく実習にも意欲を持って取り組んでほしいと思います。また研究活動は、フィールドに立つことを大事にしてください。時には海辺で1日中空を見上げてもいいし、地元で働く方と話をして帰ってくるだけでもいいでしょう。現場の風を肌で感じ、地域の人とコミュニケーションが取れたなら、ものすごく中身の濃い研究内容になると思います。現場の骨太な経験があれば、それが人生の土台となり、将来どんな職業に就いてもしっかり働くことができます。学生時代はぜひ、インターネットや本で知識を得るだけでなく、自分の足でフィールドに立つ経験を大事にしてほしいと思います。

若林 勝司

若林 勝司

交通システム電機株式会社 代表取締役会長

交通土木工学専攻|1997年修了

理工学部創設100周年心からお祝い申し上げます。

私が社会人大学院にチャレンジしたきっかけを思い出してみました。父が経営をしていた交通信号システム・鉄道信号システム・パーキングシステムなどを手掛ける会社へ製薬会社から転職をしたのは30歳の時でした。入社してすぐに目標を立て、先ずは仕事に必要となる土木施工管理技士、電気施工管理技士、監理技術者(電気)などの資格を2年かけて取得しました。そして、次の目標として、会社経営者になるスキルアップを考えました。日本青年会議所の新交通システム委員会に出向して、世界中を飛び回り見聞と知見を広めたことはこの目的達成に大変有益でした。これらの過程を経て、ついに満を持して今後必要な知識、技術、人脈を開拓するために日本大学大学院理工学研究科交通土木工学専攻の社会人大学院にチャレンジしました。

不安は多くありましたが高田邦道教授の指導を受け会社経営と大学院生の両立を可能となるように指導をしていただきました。今振り返ると、この大学院の5年間は私の人生で思考、世界観、判断基準など人間として大きく成長した時期でした。

博士(工学)の授与式は武道館において執り行われ、この晴れがましい会場で私は総長賞(学術部門)を授与されました。この賞は国際交通安全学会論文賞を受賞し本学の名誉を著しく高めた功により授与されたものであり、これもひとえに社会人大学院に入学して高田教授指導の下、国際交通安全学会の研究員として調査研究に没頭出来たことが実を結んだものと感謝しています。

博士号を授与された後は、社会人大学院を修了して博士号を授与された会社経営者は日本では少数でしたので、マスコミからも注目されて、いろいろな記事にしていただきました。銀行からも高い評価をいただき、会社経営にも役立ちました。また、講演、セミナーの講師、大学から非常勤講師の依頼などがあり現在も続けています。商工会議所からは工業部会の部会長に推薦され、現在は副会頭になって地域社会の発展向上に努めています。これからの人生は、社会人大学院で学び、博士号を授与された中小企業の経営者の一人として、業界、地域社会の向上のために貢献していく所存です。

馬渡 真吾

馬渡 真吾

東日本旅客鉄道株式会社 建設工事部 次長(国土交通省より出向中)

交通土木工学科|1998年卒業 
交通土木工学専攻|2000年修了

日本大学理工学部の創設100周年、誠におめでとうございます。

私が本学部を志望したのは、交通に特化した土木工学を学ぶことができる交通土木工学科に興味を抱いたからでした。大学院修了後、2000年に当時の建設省に入省し、主に道路分野(政策企画・評価、道路法改正、ITS・自動運転等)に従事してきましたが、当学科で得た人脈や学んだ知識は今の私の大きな支えとなっています。

研究面では、榛澤芳雄先生(現 日本大学名誉教授)の交通計画第一研究室に所属しました。当時、高齢化や人口減少のため赤字路線バスの廃止が相次ぎ、自治体がその対策として直営バスや運行委託を行うケースがみられました。そこで、当時助手の小山茂先生(現 札幌大学教授)にもご指導いただき、各地の自治体にヒアリングをして、運行の効率性評価や適正規模の推定など、効率的な運営方法を探りました。さらに大学院では、榛澤先生のご紹介により、千葉県四街道市をモデルケースとして、個人の嗜好性も考慮した活動効用モデルを構築し、循環バス導入による日常生活への影響の定量分析、受益層や受益地域の推定による効果的な路線計画の立案など、より行政実務に近い内容の研究に注力し、私が、行政官を目指すきっかけの一つとなりました。

このような地方の交通問題は、現在においても喫緊の課題です。昨年までは国土交通省道路局で、地方部のモビリティ確保に向けた自動運転技術の導入を目指して、全国各地で自動運転の実証実験を実施したのですが、学生時代の研究課題に自動運転という最新の技術で答えを見出すような仕事に従事でき、感慨深いものがありました。

学生時代に研究活動とともに打ち込んだのが、グライダー部の活動です。主将として、休暇となれば仲間とともに長期間の合宿で寝食を共にし、密度の濃い時間を過ごしました。自家用操縦士や教育証明を取得して教官として後輩の指導にもあたり、私たちの時代には到底叶わなかった全日本選手権制覇という偉業を成し遂げてくれたことは、航空日大復活のターニングポイントになったと思います。

これからの100年も、理工学部の強みを活かして益々発展し、卒業生の皆さんが各分野で一層ご活躍されることを心より祈念しております。

石井 将人

石井 将人

警察庁科学警察研究所法科学第二部機械研究室 主任研究官

機械工学科|1999年卒業 
機械工学専攻|2001年修了

日本大学理工学部の100周年に寄せて、このような執筆の機会をいただいたこと、とても光栄なことと存じます。

在学中の私の学業といえば惨憺たるもので、機械系必須の四力のいくつかが3年次に再履修という情けない状況でした。それでも、駿河台校舎での生活で心機一転を図ることが出来たのか、再履修を経て四力に対する理解も深まり、無事に卒業研究着手の要件を満たして第一希望だった藤田肇先生の研究室に配属していただきました。

当時の藤田研究室はまだ歴史が浅く、2期上の先輩方が中心となって整えた研究環境が本格的に稼働した時期でした。研究室の黎明期を知る強烈な個性を持った先輩方の下、設置されて間もない風洞からの空気漏れを修繕することから卒業研究が始まりました。この風洞には、ベニヤ板の内側に吸音材を貼り付けることで構築した流体騒音計測のための簡易無響室が設置されていたのですが、研究室内で人が歩くとその振動が入力されて計測が成立しなかったことから、自主的に12時間ほどの時差を設け、実験は専ら他に人のいない深夜に行っていました。後に、流体騒音の理論研究で高名なMichael Howe先生をこの簡易無響室にご案内差し上げた際、「ここは本当に無響なのか?」と訊かれ、間髪入れずに「だと思います!」と言い切ったことは若気の至りです。修士課程までの3年間を共に過ごしたこの風洞は、修士課程の同期で藤田先生の後を継いだ鈴木康方くんの手により、簡易無響室が取り外された上で3号館からタワー・スコラに移設され、私の学生時代とは異なる実験のために最初の設置から20年以上経過した今でも稼働しているとのことです。

4年次には、卒業研究と並行して自分の興味の赴くままに講義を受講しました。中でも、背戸一登先生の「システムの制御」と李和樹先生の「工作機械」は現在の私に大きく影響しています。背戸先生の講義では「敢えて不安定に設計したものを制御で安定化させる」という事例から「逆転の発想」を、李先生の講義では「“precision(精密さ)”と“accuracy(正確さ)”の定義と使い分け」から「言葉の選択の大切さ」を学びました。これらの学びの結果は、私にとって単なる「知識」を超え、現在の業務で要求される「自らの常識に捉われない発想力」と「適切な表現力」の源だと感じています。

これからの100年、さらにその先の時代に向け、社会に貢献する人材の育成のために益々のご発展を祈念しております。

郷田 博司

郷田 博司

TAE Technologies, Inc.
VP of Operations & Program Manager of Norman/C-2W

物理学科|2000年卒業 
物理学専攻|2005年修了

もともと物理が好きで入った物理学科だが、学部生時代には自分の将来やりたい事や可能性を見出すべく色んな事に取り組んだ記憶がある。自ら学ぶだけでなく教える事も好きだったので、学科内で履修する課目以外にも理科・数学の教員免許を取得したり、英語の語学力向上のためアメリカに短期留学したりもした。その後、学部時代に踏み入れたプラズマ・核融合関連のゼミナールが自身の将来を運命付けた。幼少期の頃から「太陽」の存在に漠然とながら疑問・興味を持っていたため、「核融合」という現象には多少なりとも予備知識はあった。また、核融合研究室の片隅に「無尽蔵エネルギー、地球上に太陽を……」というキャッチーなポスターを見つけたのも、その研究室でゼミを受講するキッカケとなった。当時の核融合研究グループには、指導教員を始め、その他教員や博士・修士課程の学生にも個性溢れる人たちが沢山おり、活気ある楽しいゼミ・卒業研究だった記憶が今でも蘇ってくる。そこで得たプラズマ物理・核融合関連の基礎知識や、実験・理論的研究への取り組み方・経験などは今の自分の礎となり財産である。その後、修士・博士課程とさらに5年間同研究室に在籍そして学位を取得し、それまでの経験を活かせる場や自身の探究心を追い求めて海外へ飛び出した。幸いにも同様の研究施設のある米国ワシントン大学に博士研究員としてポストを得て、その数年後には現職であるTAE Technologies(旧Tri Alpha Energy)の旧知研究者から「新実験装置立ち上げに伴い、経験者が欲しい」とのオファーがあり移籍した。それまでの研究業績や研究を通じたネットワーク作りが功を奏したようにも思えるが、学生時代に築いた実験研究の基盤や経験がなければ今の自分はなかったと自負している。研究者としての基礎作りや道標を記してくれた大学研究室・指導教員らに感謝するとともに、恩返しという訳ではないが、これからの若手研究者を育成すべく現在は共同研究等を行い教員・学生らとの交流を深めている。近年では短期・長期で学生らを受け入れ、研究環境や実験の機会を提供している。自身の学生時代には海外での共同研究の機会はなかったが、今の学生らには学外、特に海外との交流を積極的に経験し、今後の糧として成長して行って頂きたいと思う。

田畑 昭久

田畑 昭久

精密機械工学科准教授

精密機械工学科|2002年卒業 
精密機械工学専攻|2007年修了

大学生時代の学業を振り返ってみました。

幼少時から機械、電気機器やコンピュータ類が好きで、日曜大工程度ですが工具類もよく使っていたものの、「工学」を学ぶのは大学が初めてで、一から勉強する必要がありました。授業で出てくる機械の仕組みを何とか理解しようと、自ら、図を多用して解説してある書籍を多く読んでいました。

図面を描くことにももともと興味があって、手描き図面を提出して試問を受ける場面では、先生方に図面が綺麗だと褒められて、うれしかった記憶があります。ただ、工場で使うような機械がほとんどだったため、機構を理解するのには少々苦労しました。また、子供の頃の厚紙を使った工作とは異なり、機械材料には鉄鋼材等を使い硬いので、簡単に自分で切ったり、無理に押し込んだりするわけにはいきません。加工方法と形状・強度についての教科書や参考書も、繰り返し読みました。

当時、大きな書店にも度々出かけて工学書を見付けていたものですが、船橋校舎の図書館に行くと、国内の工学書は全部そろっているのではないか、と思っていました。現在も蔵書は大変充実していると思います。

大学生の学びの集大成として、卒業研究も充実していました。当時、精密機械工学科の先生方の中でも若手で溌溂としていらっしゃる青木義男先生が、研究テーマの一つに「工学教育支援教材」を設定されていましたので、工学をもっと効率よく勉強できないかと考えていたことや、ITに光明を見出す時代背景もあり、これだ! と思い、研究着手させていただきました。研究室では、当時やや高価だったTFT液晶のノートPCを新しく購入していただき、グラフィックスで示す力学教材のプログラム作成等を、かなり自由気ままにさせていただきました。わずかな入力ミスでプログラムが動作せず、文字通り夜が明けることもありましたが、プログラミング言語の種類を問わず、次第に多くの構想をプログラムのコードに記述できるようになりました。

青木義男先生からは、卒業研究から大学院博士後期課程の研究に至るまで、工学者としての視点・考え方とともに、大学教育への取り組み方を学び、現在に至っております。

また、仕事の種類を問わずコンピュータ援用がついてまわる今日、当時学んだ精密機械工学と、研究を通して養ったコンピュータスキルが、教育研究から諸業務まで活き続けており、自分にとって大いなる財産になっています。

前田 伸二

前田 伸二

The Boeing Company, MOA

Snohomish Flying Service, Check Pilot

Aero Zypangu Project, President

航空宇宙工学科|2002年卒業

「先生、申し訳ありません。今回の期末試験、白紙提出させてください」

大学1年生の期末試験時、全教科の解答用紙に書き込んだ。大学入学早々、交通事故に巻き込まれた私は九死に一生得てこの世に戻ってきたものの、片目を失明、パイロットを目標としてきた私はまさに何も見えなくなっていた。何のために大学で勉強するのか、障がい者と呼ばれ、何のために生きるのか……。勉強に集中できず、1年次修了時、私の単位は強制退学やむなしの状態だった。

2年生になり私のやる気にスイッチが入り毎日、睡眠3時間、月曜日から土曜日までの1限から5限まで、日曜日は製図とレポート作成の地獄の大学生活が始まった。「負けられない」「障がい者と呼ばれたくない」など葛藤を続ける自分がそこにいた。決まって期末試験時は冗談抜きで泣きながら勉強したのを今でも覚えている。この大学時代の苦しい経験は、いまだに「卒業できないよ」「単位が足りない」と教授から言われ焦る悪夢となって現れるぐらいだ。

航空宇宙工学科は他学科よりもカリキュラムを回す速さが二倍速で、それゆえ毎年、多くの留年生が出ることで有名だ。大学4年生の春、毎年恒例の卒業見込者発表は沢山の同級生で溢れ返っていた。自分の名前を見つけはしゃぐ者、留年確定し肩を落とす者。「前ちゃん、前ちゃん、おめでとう‼」とすでに私の番号を見つけ、駆け寄ってきた友人を見つけたときの私の顔は人生で一番のドヤ顔だったと思う。

そして2018年、私は社会人になって初めて母校に戻り、学科の後輩学生諸君に講演をさせてもらった。全員が寝ずに集中して私の話を聞いているのを見て「あんなに学生が真剣になった姿を見たのは初めてだ」とある教授から感想を貰った。先述の通り、はっきり言って私の大学生活にいい思い出はない。この講演後、学生当時、私の卒業論文担当であった田辺教授が「前田君、師を超えたね。本当にうれしいよ。今回は学生のために米国からわざわざ来てくれてほんとうにありがとうね」と涙を流しながら仰った時は、今までやってきたこと、苦労したことが報われ私も涙した。今ここに私が存在するのは母校と恩師のお陰だと思います。ありがとうございました。(ただ、もし大学生活に戻れるのであれば、ぜひ『合コン』というものを体験してみたい。笑)

清水 誠也

清水 誠也

鉄建建設株式会社 東京支店土木部本宿作業所 主任

土木工学科|2003年卒業 
土木工学専攻|2005年修了

私の入学時は、1号館の建て直しということで、大学2年次まで船橋校舎での授業だったこともあり、船橋校舎付近に部屋を借りて通学していました。その借りていた部屋は、通称“亀ハウス”こと亀田先生の敷地内にある部屋です。また、亀田教授の奥様に作っていただいたカレーが今でも忘れることの出来ない印象的なボリュームで、食べきるのがやっとでした。

また、平成16年度の青駿祭では、研究室として焼きそばの露店を出して先輩方との交流の場を設ける一方で、一般の方々や高校生に向けて土木を知ってもらうため、土木博というイベントを実行委員として開催しました。今思い出すと、段取り不足で訪れて頂いた先輩方からは物足りないものに感じられたかもしれませんが、多くの研究室に参加して頂くことができました。また、1号館が落成して初めての土木博を開催し、次年度に引き継げたことが嬉しく思います。

学部では、水理学・土質力学・構造力学のいわゆる3力の単位を絶対に落とさないために、試験前にはファミレスで仲間と教えあいながら勉強した覚えがあります。特に、安田先生の水理学や徳江先生の土質力学は、これまでに経験のない要素だったので勉強は大変でしたが、面白かったという印象があります。

大学院では、土質力学や土質実験の授業補助を経験させていただきました。後輩を指導する立場になり、「答えは直ぐに教えず、どこまで分かっているのかを説明させた後に、適切な助言をして本人に考えさせることが重要である」と鎌尾先生から教わり、理解させるように教えることの難しさを学びました。

大学と大学院の6年間、クラス幹事をすることになり、様々な苦労がありました。しかし、先生や他の学生幹事の仲間と何度も打ち合わせを行い、スポーツ大会や卒業式の謝恩会を無事に開催することができただけでなく、縦と横の繫がりもでき、卒業後も連絡を取り合える仲間が出来ました。また、懇親会を通じて、社会人としてのマナーやルール等、貴重な話を沢山聞かせていただきました。

入学早々に習った測量実習では、何度も再測となり、その度に土曜日の休みが潰れました。しかし、橋梁現場における高さ管理でチルティングレベルを使用する機会がありましたが、お陰で戸惑うこともなく、速く正確に測量することができ、亀田先生や羽柴先生をはじめ測量実習に携わった先生方に感謝しております。

舟岡 德朗

舟岡 德朗

株式会社大林組 海外支店建築第一部

海洋建築工学科|2003年卒業 
海洋建築工学専攻|2005年修了

大学1年生の夏休みに、「青春18きっぷ」を利用して、建築家・安藤忠雄さんの設計した教会を見に行ったとき、ドイツ人の建築家と出会いました。カタコトの英語で会話しながら、大阪や京都の著名な建築物を一緒に見て回るうちに、グローバルな建築の世界は本当に“面白い!”と思い、今こそ基礎をしっかり学ぶ時だと気付きました。振り返ってみれば、私は大学院へ進学したことも、研究室を選んだ理由も、大林組へ就職したことも、すべて純粋な「面白そうだ」という気持ちが原動力になって道を拓いていった気がします。学んだ専門領域にこだわって視野を狭めるのでなく、自分の興味や素直な好奇心を大切にして歩む道を選んでいくことが、後に後悔しない方法だと思います。

今は、ある建物が1/1のスケールで出来上がって行き、その建物がある瞬間から街の中に風景のひとつとして現れることが何より楽しいです。そして自分が長い時間をかけて大切に仕上げた建築を、街の人々が使い出して街に馴染んでいく様子を見ることが達成感であり、醍醐味だと思います。大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』でバスタ新宿が登場したとき、私はものすごくうれしい気持ちになりました。

私の所属していた畔柳昭雄教授の研究室では、水と関わりをもつ集落の建築的な研究をし、卒論は中国、修論はインドネシアを舞台にしました。そうした過程において、テーマを決めて計画を立て、その後に実踏調査を行い、広い視野で考察しながら結果をまとめるというトレーニングを積むことができました。こうした論理的な思考方法は、社会人になった今もとても役立っています。海洋建築工学科で過ごす学生時代、海洋や建築に関連した打ち込めるテーマを見つけ、先生方や先輩たち、または同級生と大いに議論をして、知識や考察を深めて行ってほしいと思います。

岡部 祐輔

岡部 祐輔

セメダイン株式会社 事業本部開発企画部開発企画1課

物質応用化学科|2004年卒業 
物質応用化学専攻|2006年修了

この度は、日本大学理工学部創設100周年並びに短期大学創設70周年を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます。

私が修士課程を修了してはや13年。当時私は有機合成研究室に所属し、超分子に関する研究テーマに従事していました。今も当時も、大月研の研究は野心的かつ挑戦的であると思いますし、それこそが、私が有機合成研究室を選択した理由でもありました。

大学院での研究生活は夜遅くまで実験するし、進捗がなければ怒られるし、決して楽ではないかもしれません(きっと令和になった今でもそうだと思います)。幸運なことに、同級生はもちろん先輩や後輩に恵まれ、とても楽しい大学院生活を送れました。今の技術者としての自分の礎となっているのは、やはり大学院での2年間の研究室での経験や学びであり、ある意味では私のルーツなのだと思います。

中でも、私が大事にしている言葉が2つあります。1つは、“研究者は応用先まで考えるのではなく、応用したくなる技術・理論を創りあげることだ”ということです。現在企業に身を置く者としては今でもハッとさせられますし、企業の役割とは何か? を今でもよく考えます。

もう1つは“知っているだけでは意味がない”ということです。これはかのアインシュタインが言った“Information is not knowledge”と被ることですが、情報を如何に理解し、本質を見極め、使っていくかは今の社会において大事なことです。知っているだけで満足しては、その先には行けない。それを学生時代に教え込まれたのはとても幸運です。

会社説明会で話す機会をいただくことがあるのですが、“大学での研究内容をそのまま活かして就職できる人は一握りしかいない。でも、どんな姿勢で研究に向き合ったか、どう助け合ったかは、どの会社でも生きるあなた方の強みだ”と言うようにしています。13年前の私を知る人からすれば、何を偉そうにと思うかもしれません。しかしながら、この13年社会で生きてきた中で、2つの言葉の存在感はより大きく増しているように感じています。そう思えるのは、有機合成研究室で学んだ2年間の、先輩・同期・後輩のおかげだと思います。正直に言えば第一志望の大学ではありませんでしたが、私は間違っていませんでした。

最後に、貴学の益々の発展を心よりお祈り申し上げます。

吉澤 智哉

吉澤 智哉

Öhlins Racing AB, Team Leader, R&D Automotive OEM

海外移住支援事業LIV INNOVATION代表

Forbes Japanオフィシャルコラムニスト

機械工学科|2005年卒業

私は新卒で本田技術研究所へ入り9年ほど車体設計をし、その後は2年間BMW Japanで品質保証エンジニアを経験しました。2016年からは家族と共にスウェーデンへ移住し、現地のサスペンションメーカーでエンジニアとして働いています。また、海外移住支援事業をスウェーデンで起業し、Forbes Japanという経済紙のライターと、様々な肩書を持っています。

私がこうして異国で働き、様々なチャレンジができるのは大学時代での経験が原点となっています。当時ホンダと共同研究を行っていた西村研究室にて、論文やレポートの書き方、理論構築方法、データのまとめ方、先輩や先生と考察の議論をすることで、エンジニアとしての基本を学びました。思い返せば非常に充実した卒業研究でした。

中でも特に大切なのは問題解決に至るアプローチの姿勢です。仮説を証明するための実験は一回目でうまくいくことはまずありません。必ず失敗すると言っていいでしょう。その失敗から学び、諦めずに次こそは成功させるという強い意志を持ち続けられる人が組織のリーダーとなっていきます。限られた予算、時間、設備、人数という制約の中で、どのようなアプローチで結果を出せるのかがエンジニアとしての腕の見せ所です。

卒業以来15年ほど社会人経験を積んできましたが、自動車業界の研究開発というのは苦難の連続です。ですが自分が開発した製品が世に出ていき、最後には報われるものです。今でもこうして最後には報われると信じることができるのは大学での経験のおかげです。

上記の姿勢や大学で学んだ科目はスウェーデンやドイツでそのまま通用します。欧州では日大も東大も早稲田も慶応も知られていませんし、そもそも大学に偏差値すら存在しません。大学で何を学び、社会でそれをどう役立てられるのかが大切です。我々の母校は優秀な先生方や企業との繫がり、潤沢な設備から見ても世界トップクラスの学びの場が実現していると言えます。

最後に、お世話になった日本大学理工学部へ感謝の気持ちを述べると共に、ますますのご繁栄を心からお祈り申し上げます。

高木 愛子

高木 愛子

谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 専門員

建築学科|2006年卒業 
建築学専攻|2008年修了

私は現在、2019年に開館した谷口吉郎・吉生記念金沢建築館に勤めています。思い返すとこれまで、日本大学でのたくさんの縁に支えられてきました。

大学1年の設計担任が大川三雄先生だったご縁で、早くから建築史・建築論研究室に出入りするようになりました。そして3年の末に、大川先生のお誘いで建築展の準備に参加し、展示を通して社会啓蒙を行う学芸員の仕事に感銘を受けました。それを後押しするように、同年4月から理工学部に学芸員課程が開講し、第1期生として学芸員資格を取得できたことにも、不思議な縁を感じずにはいられません。

しかし、近年の学芸員職は非正規が多く、建築の需要は非常に少ないのが現状です。私も専門外の非正規職を転々としており、研究室のOBG会で先生方や諸先輩方が、いつも気にかけてくださったことを思い出します。

2014年には、田所辰之助先生から公募情報を教えていただき、国立近現代建築資料館に採用されました。念願の建築分野の職場は、日本ではまだ数少ないアーカイブズの施設。博物館との違いに戸惑うことも多くありましたが、より公共性の高い公開活用の重要性を学び、日本での普及を阻む課題に現場で向き合えたことは、大きな経験となりました。

3年任期を終え非常勤となった際には、研究室の先生方が論文執筆を勧めてくださり、田所先生の研究生として吉田鉄郎の研究を始めました。建築資料の研究は、図面やスケッチ、写真、書簡など多種多様な資料を、一つ一つ丁寧に読み繫ぎ合わせていく、パズルのような作業です。時には図面のコピーに線を描き込んで、設計の意図を探りました。これまでアーカイブズの整理を仕事としてきましたが、初めて研究する側に立ったことで、思いがけないニーズにも気づくことができました。

そして2019年4月、私は建築専門の正規職として現職に着任しました。学芸員を目指し始めて約15年、漸く夢を摑みスタートラインに立っています。日本では珍しい公立の建築ミュージアムとして、また出身建築家のアーカイブズとして、これまでの経験を活かし建築文化の普及に努めていきたいと思います。最後に、長年支えてくださった先生方をはじめ日大でのたくさんのご縁に心より感謝するとともに、貴学の益々のご発展をお祈り申し上げます。

伊藤 美樹

伊藤 美樹

株式会社アストロスケール ゼネラルマネージャー

航空宇宙工学科|2009年卒業 
航空宇宙工学専攻|2011年修了

私は今の会社で、宇宙のゴミ(スペースデブリ)が脅威となりつつある宇宙環境において、安全で持続可能な宇宙利用に向けたデブリ回収サービスの実現に取り組んでいるのですが、以下にお話しする大学時代の経験が今の仕事に繫がっており、且つ自分の原点になっていると思います。

大学に入学してすぐに、友人に誘われて中村・宮崎研究室(当時)を訪問しました。その研究室は大型展開構造、柔軟構造といった宇宙構造物を専門とした研究室で、その研究成果を実際の宇宙環境で実証するために自分たちで人工衛星も開発しているのです。私は宇宙に関わるモノづくりをすることが夢でしたので、勉学や研究以上に、私の大学時代の全てはまさにこの衛星開発でした。

有り難いことに私を含め何人かは1年生の時から研究室にお邪魔させて頂き、その研究室で毎週行われる衛星開発プロジェクトのミーティングに参加するようになりました。ミーティングで知らない単語ばかりが飛び交う場に圧倒されたのと同時にとてもワクワクしたのを覚えています。まずは沢山の知らない単語を調べるところからのスタートでした。ハンダ付けや簡単な機械加工、実験など先輩方のプロジェクトや研究の手伝いをさせて頂くようになると、少しずつ衛星を構成する機器・部品、システム、それに設計・検証・審査といった開発の流れなども理解できるようになっていき、益々楽しくなっていきます。

高学年になると先輩からプロジェクトを引き継いだり、新規に立ち上げたりして主導していく立場になるのですが、そこからがやりがいもあり大変さもあるのです。段々と技術の奥深さを知り、自分の知識・能力不足を痛感し、開発やプロジェクト遂行の難しさに直面していきます。お金がかかる以上、なあなあでいい加減なことは許されません。先生や先輩からの鋭い質問や指摘もあり、論理的に説明することを求められます。こうして体力面・精神面で大変な思いをしながらも、それでも最後まで完遂することで自分が大きく成長したと実感できました。

このように大学生活は、モノづくりのいろはを学ばせて頂いただけでなく、論理的に物事を考えること、自分で考え行動すること、失敗してもへこたれないタフさ、そういった教えや精神が育まれ成長できた場でした。何より素晴らしい先生や先輩方に恵まれて指導を受け、開発や研究の機会を頂いて得た経験の全てが今の自分への強みになっていると感じます。

平山 泰行

平山 泰行

日本大学第一中学・高等学校 教諭

物理学科|2009年卒業 
物理学専攻|2011年修了

生活をしているなかで、なぜこのようなことが起こるのか突き詰めていくと、そのことを理解するためには物理という学問が必要になっていました。初めは、物理のハードルの高さに悪戦苦闘しながらも、少しずつその面白さに気がつきのめり込んでいきました。気がつけば、今まで当たり前と思って見ていた物理現象の一つ一つを、数式で説明出来ることに感動をしていました。大学の前半では座学が中心ですが、より現象とふれ合いたい気持ちもあり、実験系の研究室を希望しました。ところが、いざ研究室に入ってみると、スパナは使う、ボルトの種類は数知れず、所狭しとケーブルが這い、異常なまでに汚れに気を使い、想像していたものとは全く違っていました。さらに驚いたのは、測定器は自分で作成することです。実験装置も含め、一言で言ってしまえば、すべてオリジナル。最初こそ衝撃を受けましたが、逆の見方をすれば一つ一つ自分で納得をして、研究をすることが出来るということです。市販の測定器を使うことも出来たはずですが、そんなに都合よく研究で測定したいものを計れる測定器もありません。仮にあったとしても、不具合をこちらで修正することも出来ません。測定したい対象に対して、どのような形状の、どのような特性を持った、どのような精度まで測定出来る測定器が欲しいかと考えると、自作するのが一番でした。勿論、不具合はあります。しかし、測定器のブラックボックスになっている部分の原理も理解できているので、ノイズへのアプローチの仕方など、自分で考えて予想を立て、行動に移すことが出来るのです。大変さはありますが、面白さは市販のものよりも数倍強く感じられていたのだと思います。そして、何よりその測定器に対する責任感を持つことが出来ました。現象やトラブルには、必ず理由がある。それを解決する手立ては、原理の理解、責任感を持つことによる自負が大切だと思います。

現在教員として働いていますが、大学でのこのような研究に向かう姿勢は生徒に少しでも還元させたいと考えています。楽をせずに、時間をかけても良いから、必要と思ったら作成してみる。そして、今ある知識を総動員して、現象と真摯に向きあい、答えを導きだす。想像を超えた現象が出てきても、必ず現象には理由があるということを忘れずに取り組ませています。そして、いずれその解決しようとする姿勢が、世の中に出たときの様々な場面で役立ってくれれば幸いです。

高岡 怜

高岡 怜

三井住友建設株式会社 技術本部第一構造技術部 主任

土木工学科|2010年卒業

日本大学理工学部創設100周年を迎えられ心よりお慶び申し上げます。

大学入学まで中高一貫の女子校へ通っていた私は、周りに土木・建築関係者がいなかったこともあり、土木とは無縁の生活を送っていました。さらに高校生の時は建築に憧れ、建築学科を目指そうとしていました。しかし受験勉強をする過程で、土木技術が生活環境を支えるために不可欠で重要な存在であることを知り、土木に興味を持ったのです。

大学は土木工学科へ進学し、入学してから初めて土木工学の勉強をしました。昔から算数や数学が好きであったためか、構造力学に数学的な面白さを感じ、授業中に解く問題が楽しかったことをよく覚えています。しかし、そこではただ問題を解くことが楽しく、実際の土木の世界を見ていたわけではありませんでした。

当時、プロジェクトスタディという授業で、建設業に勤務されているOBの方が非常勤講師となり、実務に近いことを学べる時間がありました。そこでは1つの橋の設計を行った記憶があります。確かに机上で学んだ楽しかった構造力学は使いますが、私の頭の中では全く別のところが働いていたというのが感想です。当時はまだそこに楽しさは感じられず、むしろ人々の命を預かる怖さを感じたことを鮮明に覚えています。

大学3年生からは、できる限り橋について学べる場所を選びたく、コンクリート構造設計研究室にゼミ生として所属し、大学4年生も同じ研究室に研究生として所属しました。そこでは今まで目を向けてこなかった海外の構造を目にする機会が多く、視野を広げることができたと感じています。当時は何も理解できませんでしたが、どんな分野においても知る機会を増やすことが大事であると感じました。できるだけ多くのことを経験し、どんな些細なことでも感じとることが人間には重要であることを学びました。例えば、「何も感じなかった」ということも、その当時の自分が経験した立派な感想だと私は思います。

その後、研究室で橋について学ぶうちに、橋をつくる仕事に携わりたいと思い、三井住友建設へ入社しました。入社当時から橋に携わることに恵まれ、現在は技術開発の部署で橋梁に関わっています。大学の授業で学んだ土木工学の知識が根底にあり、研究室で広げた視野が社会人となった今、繫がっていると感じます。その反面、もっと勉強しておけばよかったと思うことも多くあります。

大学生活では、勉強以外に友人という素晴らしい財産を得ました。大人になった今でも集まり、心の支えとなっていることは間違いなありません。研究室では多種の分野で活躍されているOBの方々と繫がることができます。こういった幅広い人脈を広げられていることは、公私ともに現在の私にポジティブな影響を与えていると感じています。

金子 美泉

金子 美泉

精密機械工学科助教

精密機械工学科|2010年卒業 
精密機械工学専攻|2015年修了

理工学部創設100周年にあたり、「学生生活で印象的な出来事や人について」という題材をいただきましたので、私の学生生活が大きく変わった時期に出会った大学院生の先輩について書きたいと思います。

2006年に日本大学理工学部精密機械工学科に入学し、今年でもう14年も同じキャンパスにいます。研究室に配属されてから博士後期課程を終えるまでの6年間は当然思い出深いものであり、その時にかかわった方々は今の私に大きな影響を及ぼしています。しかし、学部生で授業を受けている間はサークル活動もろくにせず、私の人間関係は数少ない女生徒(私を含め5人)、学籍番号の近い人、実験班の班員だけでした。そんな私の楽しい帰宅部生活は、大学2年生の終わりに、現在の未来博士工房活動のような「レスキューロボットプロジェクト」に参加することで激変しました。レスキューロボットプロジェクトでは、研究室のテーマにレスキューロボットを取り上げていた羽多野先生のところでお世話になりました。このプロジェクトは、ソフトウェアを担当する1学年上の先輩3人、ハードウェアを担当する同輩4人のチームであり、沼津で行われるコンテストに向け活動を開始しました。この時から私の交友関係と大学滞在時間が途端に増したことを覚えています。実技経験が少なく、まず工作機械の使い方からしておぼつかない学部生に、時間を割いて細かく教えてくれたのは研究室の大学院生でした。その大学院生は他研究室の持ち物であった旋盤を使いこなし、MCまで天才的にこなす(と言われていた)方で、大変面倒見の良い方でした。当時学生の間で一番怖いと言われていたT教授のボール盤のドリルを折ってしまったときに、私と一緒に謝りに行ってくれたのもその大学院生です。結局怒られることはありませんでしたが、私はもし後輩ができたら一緒に謝りに行ける人になろう、と思いました。今でも、私の所属した研究室の先輩と同じくらい、その方にはお世話になったと思っています。本人も忘れているような事かもしれませんが、学科で行うOB会でもなかなか顔を合わすことのないその先輩への感謝を込めて、ここに寄稿したいと思います。

外山 直樹

外山 直樹

独立行政法人国立高等専門学校機構 一関工業高等専門学校未来創造工学科 助教

物質応用化学科|2012年卒業 
物質応用化学専攻|2017年修了

2017年度に理工学研究科物質応用化学専攻を修了いたしました外山と申します。このたびは、このような貴重な執筆機会をいただき心より感謝申し上げます。私は卒業後、東北大学金属材料研究所水素機能材料工学部門での博士研究員を経て、本年度から一関工業高等専門学校未来創造工学科の助教に着任しております。

学生時代に私は、小嶋先生・梅垣先生の無機材料化学研究室に在籍してご指導いただいておりました。物質応用化学科では「無機」をキーワードに連携しており、西宮先生・遠山先生からも多くのご指導いただきました。当時の研究は、セラミックス材料の合成と構造に着目し、それらを用いた水素化物からの水素生成を行い、反応性と構造との関係性の解明を行っておりました。毎週の小嶋先生・梅垣先生との報告会や月1回の無機全体報告会は、的確なご指摘やコメントの嵐でしんどかった記憶がございますが、今考えてみると忙しい状況の中で教育のために時間を割いていただいていた先生方には感謝しかありません。また、無機の先生方とはそれぞれで思い出がありますが、本稿には書ききれないのでそれぞれの先生の主テーマを記載させていただきます。「西宮先生:人生の道しるべとして心に残るお言葉—人生の主役として生きる—」「小嶋先生:社会人として必要なマナーと礼儀」「遠山先生:将来設計の大切さと国際交流の重要性」「梅垣先生:研究の意義とおもしろさ—未来創造型研究者—」と、それぞれのテーマで教育していただきました。また、卒業した現在も私の様子を気にかけてくださり、実際に教育・研究での相談に手を差し伸べていただいております。このように、卒業後も温かく迎えていただける先生方は、思いやりと優しさを持つ理想の教育者であると感じています。

現在では、私も研究室を持ち学生を指導する立場になりましたが、これも先生方のご指導あってのものです。学生一人一人と向き合い、人生を生き抜くために必要な知識・経験をさせていただいた先生方は私の目標であります。そして、先生方が私に与えてくださった「人生の架け橋」を学生に創ることを目指しています。最後になりますが、学生時代から現在まで暖かく接していただいている先生方に改めて心より感謝申し上げます。これからも引き続きよろしくお願い申し上げます。

中山 麗

中山 麗

一般教育教室化学系列 臨時職員

物質応用化学科|2012年卒業 
物質応用化学専攻|2017年修了

「進学してみない?」この言葉ですべてがはじまったといっても過言ではありません。

大学4年生の4月、理工学部物質応用化学科高分子工学研究室に配属し、私の研究人生がはじまりました。友人たちは就活に励む一方、私は進学して研究職に就くか、それとも中学・高校の教員としての道へ進むかを悩んでいました。アカデミックな世界へ進めば、研究と教育を両立できるとは当時も理解してはいましたが、物質応用化学科では女子学生の進学者はあまり多くなく、着実にキャリア・パスをのぼっていける確信がなかったこともあり、心を決めきれずにいました。そんな最中、指導教員である伊掛先生が言ってくださった「進学してみない?」の一言に強く背中を押され——いま、こうして、アカデミックな世界で少しずつではありますが歩を進めている私がいます。

学生時代に何が印象的であったかと問われれば、やはり6年に亘る研究室での生活につきると思います。先生方は、修了後も大学を基盤とした研究・教育の道に進みたいという私の意思をとても尊重してくださり、様々な経験をさせてくださいました。殊に研究面では、東北大学金属材料研究所との共同研究である高分子結晶の磁場配向、高エネルギー加速器研究機構では放射光を用いての高分子材料の構造評価の実験、フランスにあるラロシェル大学では高分子材料の比誘電率測定の実験など、これほど恵まれてもよいのかというほど貴重な経験をさせていただき、多様な技術を身につけさせていただきました。ディスカッション後に泣きながら現地の先生とお茶会をしたこともありましたが、今ではいい思い出です。研究者として大きく成長することができた期間であったことは言うまでもありませんが、特に構造評価の勉強をさせていただいたことは、学位取得後に九州大学で学術研究員として着任することができた契機ともなり、夢であったアカデミック・キャリアを開いてくれたとても大きな研究であったと感謝しています。

現在の私が在るのは、物質応用化学科高分子工学研究室の清水教授、栗田元教授、伊掛准教授をはじめとする指導教員の先生方、そして研究室が違うにも関わらず支えてくださった全教員の皆さまのお陰に他なりません。学位を取得してから3年とまだまだこの世界では新人です。日々新しいことに触れ、様々なことが吸収できる毎日を過ごせていること感謝しつつ、私も先生方のように専門分野に関係なく学生を広い心で支えることができる教員になれるよう、そして何より、母校である理工学部に貢献することができるよう、これからもさらに努力して参ります。

鷲尾 勇介

鷲尾 勇介

日本大学豊山女子高等学校・中学校 数学科主任

数学科|2013年卒業 
数学専攻|2015年修了

日本大学理工学部創設100周年という記念すべき年に、日本大学大学院理工学研究科博士前期課程数学専攻修了生として、100周年記念誌への執筆の機会をいただきまして、大変光栄に思っております。創設100周年誠におめでとうございます。

在学中の頃を思い返してみると、様々な経験をしたことを改めて感じます。1年生の時に受けた数学インセンティブ(担当は上坂洋司先生でした)の授業をきっかけに船橋校舎の図書館に入り浸るようになり、そこで完全数という面白い数のことを知ります。家に帰ってから偶数の完全数は 1 + 2 + 3 + ……の形で表せることに気が付きました。当時の私は新発見だと興奮したものですが、図書館に戻ってよく調べてみると、この事実はすでにL. Eulerによって証明されていたのです。摑みかけた夢が霧となって消えていくようなこの感覚を、私は後に研究分野となる整数論の世界で頻繁に味わうことになります。計算が上手くいったと思えば思わぬ反例が見つかったり、証明が完成したと思ったら特殊解の存在を忘れていたり、数学を研究することはまるで森の中で幻のオアシスを探すようなことだと何度も思いました。しかしこのオアシス探しの旅で積んだ経験は、私が数学の教員として教壇に立つのに本当に不可欠なものでした。また博士前期課程を修了する直前に、国際会議で自分の成果を英語で発表し、ひとつのオアシスにはたどり着いたという達成感も味わいました。

中学校や高等学校で学び、そして教える数学には、実は裏で知っていなければならない素養が多くあると感じています。素因数分解の形は(順序を除き)本当に一意的なのか、円周率πは本当に無理数なのか、ある命題とその対偶の真偽は本当に一致するのか、等々。これらのことは、それを目的として勉強したのではなく、オアシスを目指して数学の最先端の研究を進める途中で見つけてゆくことができました。オアシス探しの途中で発見したものには、その独自の価値があったのです。数学の教員として授業を担当するにあたり、毎日の教材研究や理数科の課題研究でも、大いに役立っております。

現在、私が奉職している日本大学豊山女子高等学校・中学校では、生徒一人につき一台のタブレットを配布し、教科の学習はもちろんのこと、探究学習やプレゼンテーションのツールとしても活用しております。数学ではGeoGebra等のアプリを使い、隠れた規則性を見つける取り組みも行っています。ICTの力を借りながら、中高生にもオアシスを探す素晴らしい数学の旅を体験してもらいたいと考えています。

大越 仁

大越 仁

いすゞ自動車株式会社

精密機械工学科|2014年卒業 
精密機械工学専攻|2016年修了

私が在学中に特に印象に残っている項目は、卒業研究である大型浮体構造物の構造ヘルスモニタリングについてです。小学校、中学校、高校の授業は机に座り、頭を使う授業が大半でしたが、体育や、家庭科、情報など実際に体や機械を動かし作業を行う授業が好きでした。大学生になってもその傾向は変わらず、製図や実験、機械工作、コンピュータープログラミングなど実際に考え、手や体を動かす授業を多く受講しました。そのような体を動かす授業の中でも、特に卒業研究は受け身ではなく、自分で考え行動し続けたので印象に残っています。

私の卒業研究である大型浮体構造物の構造ヘルスモニタリングとは、メガフロートと呼ばれる人工島の安全かつ低コストである運用を可能にする常時保全システムの構築を目指し、洋上に設置され常時波を受ける浮体の損傷検知方法について探求するというものでした。最初はセンサの選定及び何を計測するかから始め、センサを貼り付けた試験片の金属疲労実験や1/1000モデルを使用した損傷検知実験を行いました。特に1/1000モデルを使用した損傷検知実験については、長さ2.4m、幅1.2mの鉄板を利用しているため、一般的な水槽ではなく理工学部海洋建築工学科所有の大型水槽に浮かべ、実際の海と同様に波を発生させた状態で実験を行いました。その際に、同じ研究室の友人だけではなく、他の学科の方に水槽やクレーンの使い方などを教えていたき、学科を超えて協力していただいたことを今でも覚えており、非常に感謝しています。

卒業研究で経験した友人たちや学科を超えて連携し協力しあうことの大切さは、社会人となった今でも生かされている経験だと思います。例えば、私の会社では理工学部を卒業された方が大勢働いており、他部署の場合でも、北習志野のアーケード街や船橋の広大なキャンパス、東葉高速線などの話をすると非常に盛り上がり、打ち解け、同じ理工学部を卒業した仲間として協力し合えています。また、取引先の会社にも同じ研究室の仲間が働いており、顔を合わせるだけで笑顔となり非常に心強いものです。

卒業研究で経験した理工学部の繫がりが今の私の生活を支えており、今後も理工学部の仲間を増やし支えあっていきたいと思います。

荒井 真美子

荒井 真美子

三菱電機株式会社 鎌倉製作所IT システム部

物理学科|2014年卒業 
物理学専攻|2016年修了

人生の転機となったのは、卒業研究、大学院を過ごした研究室での経験です。私は、演示実験を通して物理の楽しさを学生に伝えられる教員になりたいと思い、理科の教員を志していました。そこで出会ったのが、自らの手で実験装置を手掛けるプラズマ理工学研究室でした。

そこでは、10mほどの巨大な実験装置の設計や組み立て、実験使用する計測器や実験補助器の製作を自分たちの手で行っていました。私は、電磁誘導によるプラズマへの電流駆動プロジェクトを担当しました。このプロジェクトは、多数の学生・教員が関わるチームで取り組むものでしたが、すべての作業の責任を自身にあると考えていた私は、人に頼むことができず、作業を思うように進めることができませんでした。

ある時、周りを観察してみると、後輩のつくる他のプロジェクト用の実験器具が精巧であることに気が付きました。そこで、作業に行き詰まっていた私は、私のプロジェクト用の補助器を共につくるようにお願いしました。彼は快く引き受けてくれ、一人でつくるよりも数段綺麗な補助器を製作することができました。そのとき、一人でつくるよりも、人と協力した方がよりよいモノづくりができることに気がつきました。

その後、私はチーム員ひとりひとりに声をかけ、互いに協力しながら作業を行うようになりました。ときには、意見がぶつかり、解決策を模索することもありましたが、最終的にはひとりではなく、チーム全体でプロジェクトに取り組むようになりました。その結果、大学院修了時には実験結果を発表できることができました。この経験を通して、私は人と関わりモノをつくることに興味を持つようになり、教員ではなく、多数の人が関わりモノをつくり出すメーカーに就職することを選びました。

現在、私は高速道路にあるETCシステムの製作、設置を取りまとめる業務に就いています。本業務は、社内だけではなく様々な業種の方と共にシステムをつくる必要があり、研究室で培った人と関わる力が大いに役立っています。まだ入社して数年、困難な局面に当たることが多くありますが、大学、そして大学院の研究室で学んだことを生かし、関わる人たちと一緒に乗り越え、成長していきたいと考えています。

相原 稜

相原 稜

国土交通省 都市局街路交通施設課 都市交通企画係長

土木工学科|2015年卒業

私の学生生活は、六畳一間に小さいシンクと一口コンロがついているだけの部屋、さらには風呂とトイレは共同、そんな寮生活から始まりました。

1年次の船橋キャンパスでは、2限の授業が終わると、食堂の座席はすぐに埋まってしまうので、友人らと協力し、誰かが迅速に食堂へ向かい席を確保して、ほぼ毎日のように「豚キムチ丼」を食べていたことを思い出します。今でもあの味が思い起こされるほど美味しかったです。4限が終わると急いでバイト先のコンビニへ向かい、帰宅後は、寮母さんが作ってくれたご飯を食べ、深夜には他の寮生の部屋に集まる、そんな日々が続きました。忙しかったですが、楽しく充実していた寮生活でした。

2年次からは寮生活を卒業し、御茶ノ水キャンパスへ通学することとなりました。1号館(ガラス張りの建物)は、外から見る分には良いのですが、夏は日差しが強かったことが印象に残っています。昼休みや授業の合間には、キャンパス内のテーブルやベンチに友人らと集まり、延々とトランプをしたり、御茶ノ水駅周辺にご飯を食べに行ったりしていました。行くと必ず煙臭くなる駅前の焼き肉丼のお店(豚野郎)は、特に気に入ってしまい、今でも機会があれば訪れています。

勉強面では、構造力学、地盤力学、水理学といった土木工学の基礎、いわゆる3力などを学ぶこととなりました。中でも水理学は難しく、教授から出される課題に対して友人らと頭を寄せ合い、関数電卓を叩きながら「あーでもない、こーでもない」と唸っていたのは、今となっては良い思い出です。

様々な授業を受けるうちに、都市計画制度やまちづくりの考え方等に興味を持ち始めた私は、当時岸井先生が指導教授であった都市計画研究室に入ることを決めました。ゼミでは「まちあるき」を行い、大手町や池袋など都内各地をひたすら歩き、見て回り、先生から土地の成り立ち等の背景を解説していただきました。この「まちあるき」を通して、そのまちの空気感や歩いている人の表情など、足を運んでこそ得られる部分も非常に多いのだと感じました。

このような現場の重要性については、国交省での政策立案にあたって不可欠な要素であることに、今まさに痛感しているところです。“統計的なデータや写真など、表面的な部分だけではなく、足を運び多くの人から直接話を聞くことで確実に現場のニーズを捉え、総合的に評価・分析し、実効性のある政策として打ち出していく”言葉で言うのは簡単かもしれませんが、地道に実践していきたいと考えています。

現在、国土交通省という立場で、まさに今後のまちづくりの方向性を示すためのガイドラインや各自治体の取組を集中的に支援する新規予算制度の創設等に関わっているところ、非常にやりがいを感じております。このような職務に就けているのも、ひとえに4年間大学へ通わせてくれた親や多くのことを学ばせていただいた先生、友人らのおかげと、心から感謝しております。

畠山 晃穂

畠山 晃穂

株式会社建設技術研究所 交通システム部
(株式会社建設技研インターナショナルより出向中)

社会交通工学科|2015年卒業 
社会交通工学専攻|2017年修了

51期社会交通工学科卒業の畠山晃穂と申します。株式会社建設技研インターナショナル道路・交通部へ就職し、現在、株式会社建設技術研究所交通システム部へ出向し3年目となります。

私は大学3年次~修士2年次までの4年間を通して、アジアの都市交通問題を対象に研究を行いました。アジアの都市交通に興味を抱いたきっかけや出来事について、紹介したいと思います。

3年次のゼミナールで選択した交通システム研究室では、アジアの都市の交通問題を対象にワークショップを行っていました。私の時は、タイ・コンケン市を対象に現地で交通の実態を調査し、分析を行って問題とその解決方法を提案するという内容でした。私のグループは、交通量調査を実施し交通状況を把握した上で、渋滞解消のためにLRTを導入する案を提案しました。LRT導入案のヒントは、指導を担当されていた福田先生から頂きました。当時は英語も上手ではなく、調査も具体的にどうすれば良いのか十分には分からない状態で、調査で収集したデータを使ってミクロ交通シミュレーションを使ってLRT導入可能性を検討したのですが、期間も3日間で、今考えると3年生なのによくやったなと思います。福田先生の他に、伊東先生、石坂先生、同期、先輩、現地タイ人の学生の協力を得られたので、なんとかやり遂げられ、協力して取り組むことの重要性を知ることが出来ました。交通量調査前夜に、コンケン市のステーキハウスで福田先生から厳しくご指導いただいたあの日のことは、未だに鮮明に覚えています。

途上国の交通状況を現地で見た私は、常に解消されない渋滞、渋滞による排ガス、舗装されておらず安全に渡れない歩道を経験して、日本では当たり前に利用できる道路や交通手段は途上国では当たり前ではないのだということを、身をもって知りました。ワークショップを通して、大学で勉強したことを生かすことで技術者としてこのような途上国の交通問題を解決し、より良い交通環境の確立に貢献できるのではないかと思いました。

これらの思いから、大学4年間は、ベトナム・ダナンへのBRT導入可能性について研究を行いました。今度は実際に自分が提案したことが形になる業務に携わることとなります。ワークショップに参加した当時に抱いた気持ちや現場を見て感じたことを忘れずに、これからも精進して参りたいと思います。

森 紗耶

森 紗耶

日本工営株式会社

まちづくり工学科|2017年卒業 
まちづくり工学専攻|2019年修了

私はまちづくり工学科の1期生として入学をしました。1期生の私たちは、最初は右も左もわからず、日々新しい発見の連続でした。新設の学科ということもあり、分からないことは大学の先輩たちではなく「先生に聞く」という環境が当たり前でした。そんな1期生に対して、先生方も学生を第一に考えて、時間を惜しむことなく、熱心に指導してくださいました。

まちづくり工学科は様々な専門分野の先生方が集まっている学科であるからこそ、様々な観点から専門分野に関する知識や人生においての助言を頂くことが出来たと思います。また、オープンキャンパスなどの大学行事では、学年や研究室の垣根を越えて多くの人々と会話をする機会がありました。このように、「人と話す」という一見当たり前のことを、大学生活の多くの場面で経験しました。そして、そのおかげで、まちづくりを考える上で必要な「多種多様な考え方に柔軟であり、常に物事を多方面から捉える思考力の重要性」を学ぶことができました。

また、研究室に所属してから恩師である岡田先生に教えて頂いた4年間は、私の人生において宝物のような時間でした。未熟な私に、研究だけではなく様々な課題や問題に対して誠実に考え続ける姿勢を幾度となく示して頂けたことは、かけがえのない財産です。特に大学院の2年間は、研究に向き合うことで、専門的な知識を深めるだけでなく、学会などの発表を通して自分の考えを人前で話す機会を頂くことが出来ました。また研究室行事の運営補助だけでなく、実践に基づいたまちづくりワークショップを通して実際に地域住民の方々と話す機会をたくさん頂きました。

これらの経験は、「誠意をもって一つ一つの仕事に取り組むこと」「臆することなく様々な専門家の方々に、自分の考えを相手に伝えることを意識すること」、という現在の私自身に繋がりました。

今後も、まちづくり工学科で学んだ6年間の経験をもとに、引き続き自己研鑽を怠らずに過ごしたいと思います。そして、校友会まちづくり部会の部会長として後輩たちの支援活動を行う中で、互いの垣根をこえて「タテ」と「ヨコ」のつながりを築いていけるような機会を積極的に増やしていきたいと考えています。最後に、本学部創設100周年を、謹んでお祝いを申し上げるとともに、さらなる飛躍を心より期待しております。

小寺 建輝

小寺 建輝

株式会社インターネットイニシアティブ

応用情報工学科|2017年卒業 
情報科学専攻|2019年修了

私が在学中に力を入れて取り組んだことは、情報セキュリティに関する活動です。情報セキュリティに関する活動として、研究、学外での活動、CTF(千葉県警セキュリティコンテスト優勝)等に取り組みましたが、一番印象に残っているのは学部4年から修士2年にかけて取り組んだ研究です。

私の研究は、情報セキュリティの現状の課題を探し出し、それを解決するためにはどのような研究が必要かを考えるところから始まりました。そして、最初に取り組んだ研究は、ハニーポットと呼ばれるサイバー攻撃のデータを収集するための囮システムを構築し、収集したデータをもとにIoT機器へのサイバー攻撃を分析するというものです。これは、脆弱なIoT機器がインターネット上に多く存在しているという課題を受けて、まずは現状のIoT機器に対するサイバー攻撃の分析が必要であると感じたからです。実際にデータが集まった修士1年からは、そのデータをAI技術の一つである機械学習に適用してIoT機器に対するサイバー攻撃の検知を行う対策側の研究に取り組むことができました。また、これら3年間の研究は学会でも発表させていただきました。発表した中には賞をいただいたものもあり、それは社会問題に目を向けて実践してきた研究が、実際に社会の役に立つ研究であると認められているような気がして、情報セキュリティに関する活動に自信をつけるきっかけとなりました。

現在は通信事業会社のSOC(セキュリティオペレーションセンター)でセキュリティアナリストとして活動をしています。具体的には、インターネット上で公開されている脅威情報を調査したり、マルウェア(ウイルス)を解析したりすることで、お客様の環境から悪意のある通信を検知するロジックを考えるといった仕事をしています。仕事には非常にやりがいを感じており、その仕事に就くことができたのも、大学時代に研究をはじめとした情報セキュリティの活動に真剣に取り組んできたおかげだと思っております。

神尾 奨太

神尾 奨太

鹿島建設株式会社

まちづくり工学科|2018年卒業

日本大学理工学部創設100周年おめでとうございます。

私の大学生活を振り返ると、やはり一番に思い出すのは研究室で過ごした2年間のことです。学生から社会人になるための変化の期間だったと思います。研究室では、学生主体で積極的な活動が行われていました。そういった活動の機会を作り、的確なアドバイスや、時には厳しい指導をくださっていたのが、研究室の先生方でした。

研究室での活動は挙げていくとキリがありませんが、八千代台と荒川区でのまちづくりワークショップや、卒業研究の現地調査で北海道に行ったことなど、どれも一般の方を交えての活動が多く、社会に出るうえで必要なマナーなども実際に学ぶことができました。また、ワークショップや研究を進めていくのに、受け身の姿勢になることが多く、何度も厳しい指導を受けたことも覚えています。受け身にならず、自分で計画してみる、情報を集めてみる、その情報をまとめてみる。そのうえで先生方からアドバイスを頂き、成果物を仕上げていく。これは仕事の進め方でも同じで、研究室活動における先生や一般の方々が、社会に出てからの上司や先輩と同じであり、大学生活で学んだスキルの中で、社会に出て一番役立っているものだと思います。

また、まちづくり工学科の先生方はとにかく面倒見が良かったなと思います。私の学生生活4年間の中で、お世話にならなかった先生はいなかったと思います。基本的にフランクな私に、時に厳しく、時に優しく、時に楽しく接して頂きました。特に就職活動の際、志望業界に悩んでいたときに、いろいろな先生のいろいろな話を聞けたのは、すごく良かったです。研究室が違っても何かあればアドバイスを頂けるし、本当に温かい学科だったなと思います。

卒業後も何度か足を運んでいますが、ついつい時間があれば寄ってしまう、私にとってまちづくり工学科はそんな場所になっています。もちろん、まちづくり工学科がそうであるように、理工学部全体が多くのOBにとってそういった場所になっているのだと思います。このたび創設100周年を迎え、今後もますますのご発展を遂げられるよう心からお祈り申し上げます。

有光 海

有光 海

東芝テック株式会社

応用情報工学科|2018年卒業

日本大学理工学部船橋キャンパスで過ごした4年間はとても有意義な物であった。理由は3点ある。

まず一つ目は、社会に出てから役立つ知識を学生のうちから講義にて獲得できた点である。中でも役立っている講義は「ソフトウェア工学」である。「ソフトウェア工学」とはソフトウェアを作成する際に必要なアウトプットの中に盛り込む図(フローチャートやシーケンス図などといったUML図)について学ぶ講義である。現在、私はソフトウェアの技術者として働いているのだが、当時使っていた「ソフトウェア工学」の教科書やノートを見返しながらUML図を作成しているくらい、本講義は実用性が高くとても勉強しがいのある講義だと思う。

二つ目の理由は、研究室の先生の指導が今に活きているという点である。私の所属していた平山研究室では、定期的にパワーポイントなどを用いて研究を発表する機会があった。その発表会では、教授や研究室の先輩が研究の進捗を確認するのと同時に、その都度発表がよりよくなるよう指導をしてくださった。私はもともと自分の意見をうまく伝える事が苦手だったが、その指導のおかげで社会人になった今では発表することに苦手意識はなくなった。これもひとえに研究室での指導のおかげであると思う。「発表する」こと以外にも研究室での指導が役立っている事は少なくないと感じる。

三つ目は、悩みなどを相談できる「仲間」ができたことである。短大・大学時代の友人たちの卒業後の進路はバラバラで、地元に帰り就職をした者、大学のある千葉に残って就職をした者、大学院に進学した者など多岐にわたっている。しかしコミュニケーションアプリ(SkypeやDiscord)を用いて近況を報告しあって、悩みなどがあったら相談することができるため、離れ離れに感じることはない。悩みを共有し、互いに励ますことができる大切な仲間は、私の人生の中でも最も大切な財産だと思う。

私がこのような充実した4年間を過ごせたのは、ひとえに日本大学のおかげであり、感謝の言葉しかありません。

最後になってしまいましたが、日本大学理工学部創立100周年を迎えられ、心からお祝い申し上げます。益々のご発展をお祈り申し上げます。

劉 康敏

劉 康敏

株式会社テクノプロ テクノプロ・IT社

応用情報工学科|2019年卒業

私は留学生だったので、入学前に大学生活にとけこめるか、大勢の日本人クラスメートと仲良くなれるか、日本語での授業が理解できるかなど、様々な不安がありました。

入学後最初のガイダンスで、学籍番号に基づき担当教員を振り分けました。私がご指導いただいた香取先生は、各学期の始まりに必ず前学期の成績について個別面談をしてくれ、単位や科目区分別の修得状況などを教えてくれて、質問や心配な点の相談に乗ってくれました。また、ガイダンスや健康診断、履修登録などの日程を事前にメールでお知らせしてくれたので、大学生活にとけこむことができました。

大学に入って最初の団体活動として、1年生の時にスポーツ大会で同級生たちと一緒に大縄跳びに参加しました。みんなで一緒に練習しながら、少しずつコミュニケーションを取り、みんなと仲良くなり、入学時の不安も大分なくなりました。

卒業研究では、最近話題になっている顔認証に興味を持ち、その裏にある技術を知りたいので、「顔認証による出席管理システムの開発」を選びました。しかし、研究の途中に様々な困難が発生しました。まず私はプログラミングが苦手だったので、最初の段階では何から手をつけたらよいのか全然わかりませんでした。研究室の関先生から研究の流れと具体的なことを教わり、やっとスタートできました。約1年間の卒業研究中、自分の努力のみならず、先生方から様々なアドバイスやシステムエラーの解決方法、そして研究方法など教えていただき、多くのものを得られたと感じています。卒業研究を通じて、プログラミングに興味を持つようになり、自信も少しずつ付いてきました。

日本大学で様々なことにチャレンジし、一生懸命取り組むことが出来て、先生方や同級生たちにもお世話になり、充実した4年間を過ごせたと思います。